ヒロシコ

 されど低糖質な日日

村上春樹さんの『騎士団長殺し』(第1部 顕れるイデア編)を読んだ感想というほどでもないけどそういうの

はじめに:ネタバレというほどのネタバレはありませんし、まだ第1部の話なので第2部になって話がどう展開するのかもちろん僕自身も何も知らずに書いていることですから。

騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編

騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編

 

村上春樹さんの『騎士団長殺し』(第1部と第2部)を発売日の朝Amazonで注文し、プレミアム会員の特典を利用してその日の夕方時間指定で配送してもらった。それから今日まで、ほぼ仕事の昼休みだけを利用して読んだ。なぜかこの本はそういう読み方をしようと手にとった瞬間そう決めた。もちろんその日の仕事の忙しさ具合によっては1ページはおろか1行すら読めない日もあった。家に帰って続きを読みたいという誘惑にかられる日もあったが、逸る気持ちをなんとか抑えつつ少しずつ少しずつ読み進め、ようやく「第1部 顕れるイデア編」を読み終えたというわけだ。

キリの良いところまでいったん読んだ感想を書きたいと思うのだが、まあ今のところは例によっていくつもの謎やメタファーばかりが提示され、面白いとかツマラナイとか云々する前に、ともかくミステリーの部分が気になってしょうがない、というのが偽らざる気持ちだ。そういう意味では村上ワールドというか村上春樹さんの術中に、僕はまんまと嵌まっているのかもしれません。それでも読んでる本人は至ってしあわせだからちっとも文句はない。だから細切れの読書でも途中で嫌にならず、まがりなりにもこうして読みつづけていられるのだ。

これまでのところ物語の主な登場人物はそれほど多くない。まず主人公(or語り手?)である「私」。今回『1Q84』で採用した三人称から村上春樹さんお得意の一人称に回帰したにもかかわらず、残念ながらそれは「僕」ではなく「私」だった。というのも個人的には村上春樹さんには永遠に「僕」が主人公の小説を書いてほしいという気持ちが強い。「私」は36歳。若くもなく、それでいて老いを実感するほどの年齢でもない。40を前にしてそれなりの人生経験を積んでいながら、というか人生経験を積んだが故の焦りのようなものを感じる微妙な年齢だといえる。

「私」は6年間共に暮らした妻と別れたばかりだ。正式にはほとんど一方的につきつけられたに等しい離婚届に書名捺印したものの、その書類がしかるべき場所で受理されたのかどうか不明。いわば表向き離婚期間中という立場にいる。ただし「私」が言うところによれば、いちおう表向きの離婚から9か月後、「あえて表現するならば元の鞘に収まった(本文引用)」ということらしい。つまりこの物語自体、元妻と別居していた9か月間に起こった不思議な出来事を「私」が思い出して書いたといういう設定なのだ。

このどこかへ行って元の場所へ戻ってくることがあらかじめ明示された構造は、読者には抜群の安心感をもたらすだろうが、反面ややもすると物語全体が閉じられて、小さくまとまった印象を与えてしまうきらいもある。でもまあ村上春樹さんのことだから、第2部の終わりにはあるいはそういう約束事なんてあっさり反故にしてくれているのかもしれませんが。それに『ナルニア国物語』や『指輪物語』だっていわば壮大な往きて還りし物語なんだしね。

さて、もう少し登場人物の紹介をつづける。離婚期間中の「私」は縁あって友人の父親で高名な日本画家・雨田具彦の家に留守番みたいなかたちで仮住まいしていた。家は狭い谷間の入口近くの山のてっぺんにあった。そこで知り合ったのが、銀色のジャガーに乗って現れた免色(めんしき)という珍しい名前の54歳の男だ。免色は谷間を挟んだ隣の豪邸に住んでいる。身のこなしから洋服の着こなしまでおしゃれで、大金持ちらしいが具体的な生業は不明、インテリっぽいがその経歴も含めいったいどんな素性の男なのかとにかく謎だらけだ。

第1部を読むうちに免色の隠された部分が少しずつ明かされていく仕掛けだが、どこまで信用していいのかはいまのところ判断のしようがない。あ、まるで『グレート・ギャツビー』みたいな話だなあとすぐさま思った。これはきっと誰しもが抱く印象でしょうね。実際村上さんも翻訳されていることだし。デイジーの屋敷の桟橋に灯る緑色の光を夜ごと見つめるギャツビー。とするならば、キャラウェイこと「私」は主人公というよりむしろ信頼できない語り手ということになるのかなあ。

話がずいぶん逸れたが、ちなみに「私」は中古のトヨタ・カローラのワゴンを所有している。色はパウダーブルー(本人に描写によると「病気してやつれた人の顔のような色合い」ということになる)。「私」には年上で人妻のガールフレンドがいて、彼女が山の上の家にやってくるときの車は赤いミニ・クーパー。第1部の後半から登場する女子中学生・秋川まりえと彼女の叔母の笙子が「私」の家にやってくるときの車がブルーのトヨタ・プリウス。それからズバリそのまま「白いスバル・フォレスターの男」なんてキャラも出てくる。

突然なにが言いたいかというと、これらの登場人物にはその人物にふさわしい車、もっといえば色合いの車があるいはあてがわれているのでしょうね、ということが言いたかったのだ。当たり前といえば当たり前かもだけど。でもそのあたりのこだわりはとても面白いし見事だと思った。ポール・オースターの『幽霊たち』を彷彿とさせる。そういえば、「顔のない男」の肖像画を描く夢を見るという不思議な感じ漂うプロローグなんて、まさにオースターの雰囲気があった。

さらに色について言うならば、色を逸れると書いて「免色」という男の名前といい、前作『色彩を持たない田崎つくると、彼の巡礼の年』という作品のタイトルからテーマや具体的な登場人物の名前といい、色についてのこだわりは近年の村上春樹さんのなかでもかなり重要なモチーフのひとつなのだろうなあ、とそんなことも。

あとはまあなんといっても笑っちゃったのが本物の「騎士団長」が登場してきたことには正直笑っちゃった驚かされた。この騎士団長はいまのところ物語中最大の謎ともいえる。身長は60cmくらいで、本人(?)いうところによれば実体はイデアということらしい。雨田具彦が描いたとされる《騎士団長殺し》という絵の中の騎士団長の姿かたちを借りてこの世に顕れているらしいじゃないか。ふふふふ・・・なんだか楽しい。かのリトル・ピープルがついに具現化した、みたいな?

『騎士団長殺し』という謎めいた小説のタイトルが、雨田具彦が描いた絵の題名から拝借されていることがわかった時点で、正直言うと、なーんだ、とちょっとがっかり拍子抜けした気分になったものだけど、それ完全な早合点だった。だって、あとから実物の(?)騎士団長が顕れるとはね。笑っちゃったよ驚愕だよ!

「私」が元妻と一緒に鏡に映っている自分たちの顔を見ながら、

どこかで二つに枝分かれしてしまった自分の、仮想的な片割れに過ぎないように見えた。そこにいるのは、私が選択しなかった方の自分だった。

と語る場面があって、ここもきたきたー!、って感じで小躍りしました。並行世界とかそういうのが出てこない村上春樹なんて村上春樹じゃない。逆に「またかよー」「もう飽きたよー」と思う人もきっとたくさんいるだろうけど、僕の生涯でいちばん好きな作家・庄野潤三なんてほとんど毎回同じ話の焼き直しというか、もうまったく同じ作品というくらいのレベルだったし、かの偉大なノーベル賞作家・大江健三郎だって同じ登場人物たちがくりひろげるどうでもいいような話のくり返しなのだから。

「私」はクラシックやオペラの古いLPレコードを聴き、こまめに台所で料理をし、それも決して手の込んだ料理ではなくさっと作れるソーセージとキャベツを茹でたものにマカロニを入れたものとか、トマトとアボガドと玉葱のサラダとかハム・サンドイッチとかをとにかく手軽に作って食べる。それほど食欲がないときはリッツ・クラッカーにケチャップをつけて食べる。リビングでは本を読んで過ごし、コーヒーやウイスキーを飲み、きちんと部屋の片付けをして、寝るときは部屋の灯りを落として寝る。そして翌朝早い時間にちゃんと目覚める。

なんでもよく考えながら話し、行動する。言動においていい意味でソツがない。ハンサムではないらしいが、顔立ちがといより言動が端正だ。むき出しの感情は極力抑え表に出ないよう努めている。たぶん生まれ持ってそういうのが備わっているのでしょうね。そしてなぜか女性にもてる。いや、やっぱりモテるだろうと思う。セックスも上手い。ちっくしょー。まったく羨ましい限りの、いつもの村上春樹さんの小説の主人公がそこにいた。この安心感たるや。

そんな村上春樹小説の主人公たちを評して、「現実感のない人物」と批判されることもあるが、僕はね、実際はよくわからないけれど、いまの若い人たちと接して彼らの話を聞いたり彼らの行動を見たりしていると、案外彼らのなかには村上春樹的人物が現実にいるのではないかと感じることも多いのだ。いやまあ、そんなことはどうでもいいんだけどね。「やれやれ」と溜め息をつく人はたしかにあまりいませんが。

そうそう、「私」は絵描きだということも書いておかなくちゃ。これはとっても大事なことだった。世間的にはまったく無名の肖像画家。《騎士団長殺し》という題名の絵にまつわる謎がこの小説の重要なモチーフなのはいうまでもないが、同じくらい「私」が描く肖像画が物語を推進する重要な役割を担っているのも間違いない。

またちょっと話が逸れるけど、個人的なことでいえば僕は歳をとるにつれ年々肖像画がどうしてか好きになってきた。絵の展覧会に行って、無名なモデルであれ有名なモデルであれ誰かしらの肖像画や画家自身の自画像を見つけると、その絵の前でかなり長い時間を費やすことが多くなった。この小説に出てくるファン・ゴッホの名もなきアルルの郵便配達夫の肖像画(《郵便配達人ジョゼフ・ルーラン》)も大好きな作品なので、昼休みの会社の狭い休憩室で思わず、あっ、と小さな快哉をあげてしまうくらいうれしかった。

あと、書き忘れていることはないかしら。「私」には15歳の時に亡くなった3歳下の(当時12歳)妹がいたこととか。元妻や秋川まりえはこの妹のなんらかの暗喩的な存在として登場する(登場した)のかもしれないですね。まだなんとも言えないけど。それからもちろん村上春樹ファン待望の枯れた井戸の話やペンギンとかシロクマとか何かのメタファーらしきキーワードも随所にちりばめられている。アンチ村上春樹からしたら、過去の作品の焼き直しを読まされているようだとはらわたが煮えくりそうなキーワードがね、てんこ盛りだった。

まさにいつもの村上ワールド全開の作品、セルフカバーだという印象は確かにぬぐえない。でもくり返すがそれは受け取りようで、進歩がないとか飽きたと捉えるか、反対に好意的にむしろワクワク感や安心材料を良しとして捉えるかは読む人次第。僕はとくにハルキストというわけではないが、それでも後者の考えに与するなあ。誤解を恐れずに言えば、村上春樹さんの新作にこれまでとは打って変わった新境地なぞ端から求めてないのだ。

それからもうひとつ作品の大事なモチーフになっているオペラ(『ドン・ジョバンニ』)についてほとんどまったく造詣がないので、そこらへんは深く読めないのが残念だし、ついで《騎士団長殺し》が描かれた背景にあるナチスドイツのオーストリア併合にまつわる歴史的・政治的な事象についても、実はそれほど深く考えずにいまのところ読んでいます。というのは正直に書いておかなくちゃと思う。 口さがない人たちは、ひょっとしてこのあたりの記述を意図的に深読みし、ノーベル賞狙いの作品などと批判するかもしれませんね。

以上、とりとめもなくダラダラとだいぶ長くなったが、第1部を読み終えた時点での感想とかそんなのです。エントリーを振り返ると、あらすじみたいなことはいっさい書いてないことに気づいた。あらすじを知りたい人は、他のちゃんとしたブログを検索して読んでください。第2部「遷ろうメタファー編」について、あるいは作品全体の感想などもいつのことになるかわからないけれど読み終わったら何か書きたい。でも書かないかもしれない。今は一刻も早く第2部を読みはじめたい。なにしろ「私」はまだパスタを茹でてないから。そんな場面はあるのかないのか、それだけでも楽しみだ。 

騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編

騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編

 

 第2部 遷ろうメタファー編まで読み終りました。以下、その感想記事です。 

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