ヒロシコ

 されど低糖質な日日

『騎士団長殺し』(村上春樹)を読んだ感想というほどではあらないないけれどそういうの(第2部 遷ろうメタファー編まで読んで)追記:『村上春樹「騎士団長殺し」メッタ斬り!』まで読んだ

これは僕が村上春樹さんの『騎士団長殺し』を読んで感じたことをただ好き勝手に書いただけのきわめて偏狭なものなので、あらすじなどを知りたい諸君はぜひ別のサイトを検索してみたまえ。なお決してネタバレを意図したものではあらないが、そういうふうに思われてしまう部分もなきにしもあらないので要注意が必要である。でもまあとにかく、下記リンク先の記事から先に読んでくれるとまことうれしいかぎりです。 

roshi02.hatenablog.com

さて、いきなり結論めいたことから書く。第2部「遷ろうメタファー編」において、おおかたの期待どおり、主人公の「私」は実に手際よくパスタを茹でるのだった。それも第2部が始まって早々に。それだけで僕は、大げさではなくこの小説を手に取った意義の半分ほどは達成できてしまったような気がした。つまりそれこそが村上春樹的なるものの本質であると考えるからだ。パスタに象徴される村上春樹的なるもの。やはり村上春樹さんは読者の期待を決して裏切らなかった。

では残り半分の村上春樹的なるものの本質とは何か? ずばりそれは謎解きにある。そしてこの小説最大の笑い謎といえば、第1部で顕れたイデア、もとい本物の騎士団長の存在そのものであることは言うまでもあらない(本物といういい方も可笑しいが)。その謎を解明するにあたって、はたして登場人物のなかで騎士団長の姿が実際に見えるのは誰か? という一点に注目すると、おのずと小説のキモのようなものが見えてくるのではないかと思うのだ。

はいそれは、主人公であり物語の語り手でもある「私」と、秋川まりえのふたりだけですね。どうやら死期が迫った雨田具彦にもイデアの存在らしきものの姿はぼんやりと見えるらしいのだが、それがこの世で騎士団長の容姿をともなったものかどうかはわからない。というか、おそらくまるで異なる容姿を仮借した存在なのだろう。なぜなら、そもそも騎士団長とは、「私」にとってあるいは秋川まりえにとって、ある意味雨田具彦そのものでもあるのだから。

えーっと、いちおう誤解のないように書いておきますが、雨田具彦は「私」や秋川まりえにとっての父親的なものの象徴としての雨田具彦、という意味でだ。 このことをもう少しわかり易く説明しますとですね、僕はね、この小説に出てくる主な登場人物はほとんどすべて、「私」と秋川まりえの分身に過ぎないのではあらないかという大胆な仮説を立てているのだ。分身という言い方が忍者みたいで馴染まなければ、平野啓一郎さんいうところの「分人」と言い換えてもいいぜ。

いずれにせよ、男はみんな「私」の分身あるいは分人。女は秋川まりえの分身(分人、以下同)。そこは本来「私」の妹・コミの分身であってしかるべきだと思うのだが、コミは彼女が12歳のときすでにこの世を去っている。幽霊の分身という言い方をするとよけい話がややこしくなるので、生身のまりえの分身ということにしておく。よって、山のてっぺんの隣人・免色渉も「私」の分身であり、「白いスバル・フォレスターの男」も「私」の分身。もちろん友人の雨田政彦(具彦の実の息子)しかり。雨田具彦の絵の中に描かれたドン・ジョバンニだってあの「顔なが」だって「私」の分身なのだ。

一方、「私」と別居中の妻ユズも、年上のガールフレンド(という村上春樹さんふうの表現もどうかと思うが)も、東北の旅で一夜を共にした訳アリの女も、まりえの叔母・秋川笙子も、免色の昔の恋人(まりえの実母かもしれない女)もアンナ・ドンナも、そしてもちろん妹・コミもここは便宜上まりえの分身だと考える。みんなそれぞれ「私」のなかに潜む別の部分、別の個、別の顔で、ある部分は世間的に開かれた社交的な顔であり、またある部分は秘密のベールに覆われ世間からは秘匿された顔である。

やさしさ、思いやり、ユーモア、それとは対照的な暴力的欲求、妬みや羨望、富や権力欲と、おそらくどんな人間もが生来持っている極めて自然な内面をそれぞれ別の登場人物に宿すことで表現しているのだと考える。だからこそ、騎士団長は「私」や「まりえ」を呼ぶ際、「お前」や「君」と呼ばずあえて「諸君」と奇妙な日本語の複数形を用いるのだ。これは「お前」や「君」のなかに含まれる多数の人格をひとまとめにして「諸君」と呼んでいたのですね。なので「私」とまりえをまとめて指すときには「諸君ら」という屋上屋を架すような複数形の複数形を用いている細かなことに僕は注目する。

ところで、免色渉というキャラクターは今回登場するなかでも特に秀逸で、彼は僕の考えでは当然「私」の別の顔でありながら、その彼のなかにあっても世慣れた紳士然とした顔と、もうひとつ「巨悪」を彷彿とさせるような別の裏の顔がありそう。これこそがいわゆる二重メタファーの象徴そのものなんだよなあと僕は感心しましたね。

免色さんといえば彼の邸のことにも触れおきたい。玄関や居間は世間一般に対する免色の華やかな社交性を象徴し、書斎はもちろん免色の知性の象徴であり、ガレージ(に眠る複数の高級車)は金銭欲や支配欲や権力欲の象徴であり、豪華な食堂はおそらく旺盛な性欲の象徴であり、それに比して地下二階にあるメイド用の部屋やランドリーやジムは、免色の知られざる裏の顔、暗闇の一端を象徴している。ことに地下二階という設定がいかんともしがたく上手いし面白いなあと思った。

さらに、かつての恋人が身に着けていた衣服を保管してあるウォーク・イン・クローゼットは、免色のもっとも心の奥にある心の琴線・決して他人が無断で踏み込んではいけないやすらぎ、まるで宝石箱のような場所なのだ。その場所があるからこそ免色は若い時分から向上心を持っていられたし、いかなるときにも平静を保っていられるし、その逆にいつなんどき危険な分子に心身を支配されるかもしれないという危うさを兼ね備えているように見えるのだ。

かように免色というキャラクターが複雑さを帯びているのと対を為し、「白いスバル・フォレスターの男」というキャラクターは単純明快である。物語の後半、騎士団長をして「諸君(「私」のこと)にとっての邪悪なる父」と定義づけられているが、僕が思うに、「白いスバル・フォレスターの男」そのものが邪悪なる父のメタファーというよりは、「私」のなかに住まう邪悪なるものを抜け目なく嗅ぎ分ける力の象徴だからこそ、それに見つめられると人は言い知れぬ恐怖で身が竦んでしまうのだろう。

こんなふうにあらすじとか全然横に置きっぱなしのまま、僕なりの妄想全開でこの小説の謎の一部を紐解いてみた。結果もし、村上春樹さんがこれを読んだら一笑に付すほどの価値もない酷い感想文が出来あがったかもしれない。それはまあいいや。いや、よくはあらないけど仕方あらない。仕方あらないついでに書いておくと、小説の構図は、「私」と秋川まりえ(妹・コミ)が互いに手を取り合って、心の暗闇に潜む邪悪なるものと対峙し、それを克服し乗り越え成長していく物語だ(まりえの胸の大きさも)。

つまりそのための端緒として、雨田政彦の実父であり彼の意志や素質を受け継ぐものとしての「私」の父でもある雨田具彦のいる目の前で、騎士団長≒雨田具彦≒父親的なるものをあえて殺すことによって、その絶対的な支配者を乗り越える必要があった、というわけなんですね。おあつらえ向きに、かつて政彦が失くした出刃包丁がなぜかその場にあった。これが騎士団長殺しの真実(まこと)、小説のタイトルの由来でもあったんだと思った。よく考えられている。

あとね、どうしても村上春樹的なるものを構成する重要な要素の一つである、近親相姦の匂いについて、やっぱり触れず避けて通るわけにはいかないだろうなあと思う。全体が「私」とまりえの物語であるということは既に書いた。煎じ詰めれば「私」と妹・コミの、兄と妹の近親相姦的な仄めかしがソコハカトナク匂う話でもある。と同時に、免色と実の娘かもしれないまりえとの複雑な関係、まりえの叔母・笙子と兄(つまりまりえの実父)との関係においてもそういう匂いは感じられる。

しかも僕は、「私」の妻ユズの浮気相手というのは雨田政彦のハンサムな同僚などでは断じてなくて、ずばり政彦本人ではないかという疑いをいまもって捨てきれずにいるのだ。このふたりこそ血縁関係にはないが、非常に近しい間柄でそういう親密な関係になっている可能性があるとすれば……。若かりし頃のウィーンの雨田具彦と、ナチスによって惨殺された彼のかつての恋人の間柄にも、あるいは兄と妹的なニュアンスがほのめかされているふうなところがありはしないだろうか、とかさ。まあそのあたりはおそらく僕の考え過ぎかもしれませんね。 

以上、はじめにお断りしたように、非常に偏狭な部分だけを取り上げた感想に終始しています。でもとっても楽しかった。素晴らしい作品だったと思う。物語の背景や、例の穴というか井戸のこと、顔のない男のこと、などにももう少し踏み込みたかったですけどね。ただどんな読み方をしようと、村上春樹さんの久しぶりの長編小説にはやはりワクワクと心踊らされるものがあったのは間違いない。それにこれを言っちゃえばおしまいという気もするが、村上春樹さんの書く小説は、その内容はともかく文章のひとつひとつのリズムがとっても心地よく読めるのだ。そんなことってありそうでなかなかあらない。

追記:大森望さん豊崎由美さんの『村上春樹「騎士団長殺し」メッタ斬り!』を読んだ

上記本読んでみた。まあいつものおふたりの調子で、楽しく読むことができた。ちみなみにこれ、『騎士団長殺し』のみならず『色彩を持たない田崎つくると、彼の巡礼の年』や『1Q84』(BOOK1・2・3)『女のいない男たち』についても併せてメッタ斬りしてますね。そいう編集の本です。

とくに合点がいったところは、p48豊崎さんの発言で、

この免色さんがね、なんか、こう雑な描き方になっているような気がしてしかたないんですよ。雑というか、物語を駆動させるための道具にされちゃってるというか。

の箇所。免色さんというのは、この小説にはほとんど悪い人がでてこないなかで、そのいわば「悪」の匂いを濃厚に漂わせるかなり貴重で特異なキャラクターだと僕は思っていたから、この発言には「そういえばそうだよなあ……」と気づかされたところが大いにあった。

確かに言われていれば、免色さんにまつわる謎の部分、いわばブラックボックスの部分でストーリーをいったん都合よく転がしておいて、ときどき謎解きのヒントを小出しにしながら、でも結局は肝心なブラックボックス本体は最後まで回収していないというかね。

あとは、秋川まりえはなぜ免色の屋敷から4日間も脱出できなかったのかとか。その前にそもそもまりえは、な~んだ免色の家にいたのか、という虚脱感とか。そういう点はとても共感できた。

それから読んでる最中、お昼に食べていた高梨沙羅さんのCMで評判のきゅうりのキューちゃん入りおにぎりを思わず吹きこぼしそうになったくらい腹を抱えて笑ったのが、p101の大森さんの、村上春樹さんもSFという小説ジャンルの枠組みを使うのならもう少しそういったジャンル小説に対してリスペクトしたほうがいい、という発言のなかでの脱線した以下の件、

関係ないけど、これ、漫才コンビになるね。「どーもーっ!」って出てきて、「イデアです!」「メタファーです!」「二人合わせて『騎士団長殺し』です!」って(笑)。 

なんだかんだいって、『騎士団長殺し』の感想というか評論というか紹介というか解説というか謎解きとして、この漫才コンビのたとえ話ほど的を射たものは僕は他所ではついぞお目にかかったことがあらないなあと思った。

騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編

騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編

 

 

騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編

騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編

 

 

村上春樹「騎士団長殺し」メッタ斬り!

村上春樹「騎士団長殺し」メッタ斬り!