ヒロシコ

 されど低糖質な日日

映画は途中からでも構わず見て次回見はじめたところまで見て帰るのが当たり前だった

映画が好きだという人は僕の周囲にも案外たくさんいる。そういう人と話をするとたいてい家のテレビやパソコン・タブレット・スマホ等でDVDやBlu-rayを見たり映像配信サービス(AmazonプライムビデオとかWOWOWオンデマンドとか)で好きな時間に好きな映画を見ていることが多い。つまりソフトとしての映画が好きだということのようだ。ではもっぱらテレビのロードショー番組でしか映画を見ない人たちのことまで含めてそういう人たちをいわゆる映画好きと認めていいのだろうか?認めるも認めないもそもそも僕が独断で云々するいわれも権限もないわけだけど世間一般ではどうだかわからないが実はこの点について僕のなかではすでにはっきりと結論めいたものが出ているのだ。家のテレビで見る映画だろうとパソコンやスマホで見る映画だろうと映画が好きならそれでいいじゃないかというまさに明瞭会計もうこの先はビタ一文請求しません的シンプルな結論なのである。大昔の話になるが大学生になっていよいよ毎日映画浸りの生活を送るようになったとき蓮実重彦先生の映画に関する著作をむさぼり読んでいたく影響を受けた僕はご存知の方はきっと大笑いだろうがあの独特の文体をずいぶん下手に模倣した映画評を書いてはせっせと映画雑誌に投稿していた。映画好きと自負する人たちの間で流行った一種の麻疹のようなものだ。当時の僕は思い返すと冷や汗が出るくらい高慢ちきな勘違い野郎だったのでテレビでやってる映画なんて断じて映画じゃない!と憤慨しつつそういうのをよろこんで見ている人のことをはっきりとバカにし見下していた。少し弁解させてもらうとテレビで放映される映画はNHK以外コマーシャルと放映時間の関係でいまよりよほどズタズタに編集された酷いものが大半だったからね。無理もなかったと思う。字幕ノーカット版なんて民放では皆無だった。そんな僕が考えを改めるきっかけとなったのが夏休みのアルバイトでおよそ1ヶ月半ソーラーパネルの取り付け工事をやったときのこと。僕は社員の吉田さん(仮名)と二人一組になって吉田さんの運転するライトバンで方々の家をまわった。仕事の休み時間やお昼にお弁当を使っているとき吉田さんが「おいゆうべの日曜洋画劇場見たか?」としょっちゅう尋ねてくる。「はあ」とか「まあ」とか適当に返事する僕に吉田さんは構わず「ジュリアーノ・ジェンマかっこよかったなあ」「スティーブ・マックイーンすげーよなあ」といいながら海外のアクションスターたちがどんなふうにかっこいいのかどんなふうにすげーのかいちいちていねいに解説してくれるのだった。ほぼ毎日そんな調子だったからはじめは鬱陶しい気持ちも正直あったが不思議なことにちょっとずつ僕も吉田さんのゆうべの映画の話を聞くのが楽しみになってきた。あのころは一日おきくらいでテレビのロードショー番組があった。話の内容はおおむね退屈だった。がいかにも面白おかしく話す吉田さんを見ているのが僕はだんだんうれしくなってきたのだ。僕のようにひと夏だけの気楽なアルバイトとは違い来る日も来る日も夏の暑い日も冬の寒い日もこうして責任ある仕事をつづけ家族を養い夜は晩酌とかしながら楽しみな映画をテレビで見る単調だが充実した毎日。たまの休日は会社の野球チームのメンバーになってるからと練習や試合でつぶれることもあるといった吉田さん。確かめたことはないが実際のところ映画館なんて行ってるヒマなかったでしょうね。ある日「なあ、あんたもそうとう映画好きみたいだな」と吉田さんが僕にいったのだ。僕はどう答えたらいいかわからずとりあえずいつものように「ええまあ」と曖昧に笑ったのだと思う。そうしたら吉田さん「どういう映画が好きなの?」と珍しく僕のことを聞きたがった。しょうがないから適当に話を合わせ「アクションとかサスペンスとかお笑いなんかですかね」と僕は答えた(と思う)。実のところ僕はゴダールやヴィスコンティやフェリーニやベルイマンや小津や溝口やぐるっと一周して相米信二や黒沢清や石井隆の映画のことばかりが映画だと思うようななんとも鼻持ちならないやつだったんですよね。まあとにかくそういうことがあってから僕はちょっとずつ変わっていったんだなあ。劇的になにかがパチンと切り替わるような具体的な出来事でもあればこういう話は面白くまとまるのにそういうわけではないのが口惜しい。けれどそれ以降少しずつ僕の映画に対する見方・考え方が変わってきたのは紛れもない事実だ。やがて大学を卒業して東京に出てきた僕は週末を利用してますますあちこちの名画座を渡り歩くようになった。お金もあまりなかったので映画雑誌や新聞の試写会に応募しては意欲的に新作も見た。だけど結婚して子育てに忙しい最中はほんとうに映画を見に行く余裕も機会もめっきり減りそのかわりといってはなんだけどよくレンタルビデオを利用した。子どもが寝静まった夜奥さんになった人とふたりであれほど嫌悪していたテレビのロードショーもよく見た。もうそのころにはフェリーニやヴィスコンティや小津だけが僕の映画ではなくなっていた。さすがに劇場で見ない映画は映画じゃないみたいな凝り固まった狭い料簡からはとっくに解放されていた。ただしいまでも僕はよく映画館へ足を運ぶ。ときどき映画が好きというよりむしろ映画館が好きなんじゃないかとふと思うことがある。その方が自分の理解としてはどうも自然な感じがするのだ。

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ところで「昔の映画館はよかった。シネコンばやりの昨今はどこもおなじようなつくりでその映画館の独自色がなくてつまらない」などという人がいますね。僕はわりとそこらへんあまりこだわりがない。小林信彦さんがいうようにビルの上階にあるシネコンはいざ地震や火事のとき怖いから行かないというのももっともな理屈だけれどそんなことをいいだしたら映画館にかぎらずだんだんどこへも出かけられなくなってしまう。それよりいまの映画館はどこもきれいになって清潔でおよそ2時間を快適に過ごせるだけでもほんとうにありがたいなあと思うのだ。なによりトイレが清潔なのがうれしい。大事なことだもん。欲をいえばスクリーンがもう少し大きいとなおいっそうよいのだがそこまで望むのは贅沢というもの。逆にスクリーンが小さいこともあってたいていのシネコンは階段式になっており前に背の高い人やムダに姿勢がいい人やコックさんみたいな高い帽子の人が坐ってもスクリーンがそれで見えづらいということも少ない。前の席との通路も比較的広めにとってある劇場もずいぶん増えた。僕は空いていればいつも通路側の席を確保するので早めに坐ってもあとからくる人のためにそのつど立ち上がらなければならないほど窮屈ではなくなった。なかにはファーストクラスかと思うくらいめちゃめちゃ広い通路の映画館だってあるのだ。あと歓迎すべきはひとつの椅子に肘掛が左右両側ついている劇場の登場ですね。アレ自分は左右どちらの肘掛を使えばいいのかいつも頭を悩ます。となりどうしふたりとも遠慮して結局どちらもが肘掛使わなかったなんて馬鹿げた事態だって起こりうるくらいだ。僕が通路側の席を確保するのもそのため。必ず左右どちらかの肘掛はキープできる。当然おなじことはカップホルダー(ペットボトルとか置けるとこ)にもいえる。肘掛とカップホルダーが一体型になった劇場がいまは主流だ。とはいえ依然大多数の劇場では肘掛(およびカップホルダー)は椅子2つに3つという割合の従来型がほとんど。きっとあれにはどちらがどちらの肘掛を使うという明確な決まりはなくお互い譲り合って使いましょうというきわめて日本的な発想にもとづいたものなのだろう。裏を返せば要するに早い者勝ち遠慮しないもの勝ち。あとロビーが最初から暗めの映画館も僕は困る。場内もあらかじめ照明をだいぶ落としてるところがあって映画がはじまる前からの演出に若干の特色があるといえばあるがふつうに明るい方が僕は好きだしありがたいなあと思う。開映を待ってるあいだ少しでも本を読んだりできる。そうして映画がいよいよはじまるという合図で少しずつ少しずつ照明が落ちていくあのワクワク感がたまらない。そうやって考えると昔のすみませんまた昔の話に戻るけど40年ちょっと前くらいの田舎の映画館なんてほんと酷かった。まあだけどなんか全体的にのんびりとおおらかだったなあ。劇場自体もきったなかったしスプリングが壊れてる椅子もそこらじゅうあったしコーラの空き瓶はコロコロ転がってみんな平気でタバコを吸い吸い殻を足元に捨て家からお菓子や弁当持ってきてときには館内放送でお母さんが弁当届けにきましたという呼び出しまでかかった。それになにしろ僕らは映画を途中からでも構わず見て次回見はじめたところまで見て帰るということをごく当たり前のようにやっていた。いまみたいに座席指定も事前予約も完全入れ替え制もなかった時代。映画館へ到着したらためらわず暗い場内を進み手探りで空いている席を見つけ運よく席を確保できたら途中からでも構わず見はじめとりあえず最後まで見たら休憩をはさんで次回の上映をまたあたまから見てだいたい前回見はじめたところまで見て帰る。そのまま最後までまた見てしまうこともある。僕ら子どもだけに限らずそうしている大人もずいぶんいたと思う。子どもの僕らは面白かったらそうして一日中でも映画館に入り浸ってくりかえし同じ映画を見たのだった。誰からも咎められることも追い出されることもなかった。『日本沈没』も『ドラゴン危機一髪』も『ゴジラ』もそうやって見た映画だったのだ。いまはさすがにそんなことしないしできない。若いころはいちばんうしろで立ち見なんかも全然平気だったなあ。2本立て(という言葉自体珍しいものになった)でもちっとも苦にならなかった。これもいまはさすがにもう無理。上映時間2時間を超える映画が増えたこととやはり寄る年波には勝てないのだ。おなじ映画を見るのならできるだけ快適な環境でゆったりと見たいなあと思います。