ヒロシコ

 されど低糖質な日日

夏がくるとまた読み返したくなるとっておきのおすすめ本5選

7月になりまもなく梅雨があけるといよいよ本格的な夏がやってくる。暑い夏に適度に冷房の効いた部屋のソファに寝転がってアイスコーヒーなんかかたわらにして本を読む。そのままついついうたた寝してしまうこともあれば興がのって最後まで本を読み切ってしまうこともある。夏はというか夏もももちろん読書の季節なのである。ところでそんな夏がくるとなんとなくまた読み返したくなる本があなたにはありますか? 僕にはあります。あたらしい小説もいいがどうしてかふと思い出して本棚のなかを探し見つけるとまたあらたな気持ちで読み返したくなる本が。今回そんな僕のとっておきの夏の5冊について(順不同で)簡単にまとめてみた。どうぞご笑覧くださるとうれしいです。

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開高健『夏の闇』

まず1冊めは開高健の最高傑作(と僕が勝手に思っている)『夏の闇』。これは実に見事な身辺雑記だ。とにかく他人に会うのが億劫でたまの散歩以外ずっと女の部屋にこもり女を訪ねてくる人があればキッチンに隠れる男。ソファの皺が男のひとがたにくぼむほど惰眠をむさぼり貪欲なセックスと旺盛な食欲…酒…煙草……。そんな日常に倦んでも男は女を捨てる踏ん切りがつかない。とうとう男は旅に出て釣りをする。この釣りの場面はさすが感動的なまでに美しい。そうしてまたあの命からがら逃げ出した戦場へと男は舞い戻ってゆくのだ。闇から抜け出し地獄へと戻る。ただそれだけの話なのに皮膚にまとわりつくような夏の暑さと濃密な文章がクセになる1冊なのです。小説の内容とはいっさい関係ない話だが開高健で僕がなぜか思い出すのがテレビドラマ『北の国から』で富良野の小さなスナックでホステスとして働く「こごみ」という女性が登場する回のことだ。彼女はいっとき主人公の五郎とそういう男女の関係になっていくのだが彼女に惚れた男たちは実は過去にもたくさんいてこごみが開高健のファンだと男たちに漏らすたびに富良野にある小さな本屋さんから開高健の本が売れてなくなるというエピソードがあった。あれとっても面白かったなあ。 開高健といえば紀行文や食と酒にまつわる随筆を思い浮かべる人が多いかもしれないけれど僕はこの『夏の闇』が間違いなく開高健の最高傑作だと思います。 

夏の闇 (新潮文庫)

夏の闇 (新潮文庫)

 

 

井伏鱒二『黒い雨』

2冊目は定番中の定番といわれるかもしれないが井伏鱒二の『黒い雨』を。いまさらあらすじを語る必要もないくらい有名な話ですよね。われわれ日本人のこころのDNAに深く刻まれた8月6日の広島への原爆投下の記憶。本書はその原爆投下から数年後の広島の小さな村を舞台に被爆の後遺症に悩まされつづける夫婦と彼らと同居する婚期を迎えた姪の日常を丹念に描いた傑作である。原爆は恐ろしいなあだからあんな戦争は二度と再びやっちゃあいけないんだよとそれはまあそのとおりなんだけどむしろ僕は『黒い雨』の日常描写のゆたかさに何度読んでもそのつどハッと驚かされる。僕がとくに好きな場面は戦争が終わって主人公と彼の勤め先の工場長のふたりが取引先への貢物用に保存していた缶詰の牛肉を食べるところだ。凄惨な被爆体験をつづる中でこの場面描写の独特のユーモアは文学というものがいかにしなやかであるかを教えてくれる。まさに井伏鱒二の真骨頂だと思うのです。そこで話はまた横道にそれるが武田百合子が『絵葉書のように』というタイトルの短いエッセイのなかで好きな本を1冊といわれれば『黒い雨』だと書いている。「7月がくると山暮しがはじまる。梅雨があけて土用に入る。真夏の大気、森羅万象にうながされるように、『黒い雨』を読みはじめる。涙ぐんだり笑ったりして読みおわる。毎年くり返して、あきることない。(本文引用)」とある。夏を前にして夫であり作家の武田泰淳とともに富士の山荘にこもり泰淳の書棚から持ち出した『黒い雨』を読み返すという武田百合子のこのエピソードは僕の大のお気に入りなのだ。  

黒い雨 (新潮文庫)

黒い雨 (新潮文庫)

 

 

武田百合子『富士日記』

さてその武田百合子の『富士日記』を3冊目に紹介する。これは夏がくると読み返したくなる小説というより僕の場合一年中いついかなるときでもすぐ手元において気紛れに開いたページから気が向くまま時間の許す限り読み返しているくらい大好きな本だ。小説ではなく正真正銘ふつうの日記です。夫・泰淳とともに夏の一時期を富士山のふもとの山荘で過ごした13年間にもおよぶ日記だ。文庫本にして上中下巻とたっぷり3冊にもなる大作でまぎれもなく日記文学の最高峰だと僕は思う。はたしてその中身は何月何日どんな天気で朝昼夜にどんなものを食べどんなものを買いいくらだったかどんなことをしたとかどこへ行ったとかどんな映画を見たとか近所の誰それが訪ねてきてどんな面白い話をして帰ったとかを武田百合子特有のあけっぴろげな筆致でかつ詳細につづったくどいようだけどただの日記なのである。

 七月二十四日(金)快晴
 朝 ごはん、かれい煮付け、じゃがいも味噌汁(卵入り)、海苔。
 昼 チーズケーキ、とりのスープ、果物ゼリー。
 夜 ごはん、シューマイ、ほうれん草バター炒め、丸焼茄子。
 朝ごはんの前に、大岡さん(大岡正平へ)干物を届けに行く。隣りの家は出来上がったらしい。大岡さんの書庫みたいに、すぐそばに建っている。
 大岡さんはパジャマのまま出てこられる。「何だ。あがらないのか。隣りの家だけ見にきたのか。いやがらせか」。
 昨日は二人とも吉田に映画を観に行かれたのだそうだ。「夏までの仕事は全部終りました」と、奥様が笑いながら言われた。
 十時前、河出書房「中国文学」のゲラ直し、速達で出す。
 薬屋で。タバコ二千円、胃腸薬ライク二百二十円、蚊取線香、歯ブラシ二本三百円、洗剤九十円、トイレットペーパー五個二百円。
 S農園で。レタス二十円、桃六個百八十円。
 今日、リスが二匹やってきた。いつも三匹きていたが、そのうちの一匹は道路工事にきている地元の人につかまった、と、一昨日、隣りの植木屋が教えてくれた。

ほらねこんな具合に。余談だが『仰臥漫録』の子規や『富士日記』の武田百合子がもしいまの時代に生きていたらあるいは毎食のメニューをスマホ写真に撮り続けInstagramにでも投稿しただろうかと想像すると愉快だ。武田百合子はともかく子規は間違いなくそれをインターネットに公開しただろう。ちなみに子規の『仰臥漫録』は発表を前提としなかった病床での日記でこれを読むと子規は病の床で存外ハイカラなものを飲み食いしていたことがわかる。ライスカレー、鰹のさしみ、鰻の蒲、焼親子丼、まつたけ、菓子パン、ビスケット、パイナップルや桃の缶詰、葡萄酒、ココア入りの牛乳、紅茶、などなどその旺盛な食欲を朝昼晩間食と実にこまめにメモしているのだ。死ぬのは怖くないが苦しむのが怖いと言い母親が風呂に出かけた隙に自らの命を絶とうとしたときの彫刻刀や千枚通しまでをもていねいにスケッチして日記に残している。凄まじい生への執着心である。他人の日記というのは書かれようによって読みようによってはかように面白いもので石田五郎の『天文台日記』しかり生活が苦しい苦しいと言いながらもしょっちゅうすき焼き食べてる島尾敏雄の『「死の棘」日記』しかり。そもそも僕がもっとも好きな作家庄野潤三の晩年のシリーズだってそれ以前の『夕べの雲』や『ザボンの花』だって新聞小説とはいいながらまごうことなく日記だものね。  

富士日記 〈上〉〈中〉〈下〉 3冊セット

富士日記 〈上〉〈中〉〈下〉 3冊セット

 

 

 松家仁之『火山のふもとで』

4冊目はひとつくらいあたらしいところから松家仁之さんの『火山のふもとで』を挙げる。はじめてこの本を読みおわったとき偶然かもしれないが最後の白紙の1ページを前に深い深い余韻に浸りながら次第に胸がいっぱいになった。『富士日記』が富士山麓の話だとしたらこちらは浅間山麓の話である。舞台となる時代は1980年代。尊敬する建築家の事務所に入所を許された若き建築家が浅間山の麓にある事務所の別荘「夏の家」で過ごしたひと夏と少しだけの物語だ。いまなお噴火をくり返す猛々しい火山のことは言うに及ばず軽井沢の移りゆく四季や鳥や花などの小さな自然描写や彩り鮮やかで匂い立つような食卓の風景などが実に豊に描かれている。とりわけ早朝の別荘の階下から聞こえてくる先生の控えめな気配にはじまり鉛筆を削る音、教会のパイプオルガンの音、ルノーの軽快なエンジン音、深夜に使う湯あみの音、暖炉の薪がはぜる音、先生のいびき、ベートーヴェン、マーラー、ショパンなどなど並々ならざる音へのこだわりには目をみはった。リアリティとディテールをどこまでも追求してその淡々として静謐な筆致はそっくりそのまま建築論とも重なっていて面白いと思った。ゆっくりと過ぎ去っていく時間がたちまち懐かしくなるような惜しくなるような不思議な感覚を覚える。まずエピソードありきではなくあくまで登場人物が時間の流れに沿ってごく自然に無理なく動いているのがいい。読み返すたびに文体の流れに身を委ねていられる安心感があってつくづくよい小説を読んだなあとあらためて思わされる。ところで『火山のふもとで』をはじめて読んだとき他の人はいったいどんなふうに感じたのだろうかと調べてみたことがあった。すると多かったのが登場人物が村上春樹さんの小説に出てくる人みたいだったという意見だ。なるほどそういわれてみるとそんなふうにも思える。おとなしいところとか博識なところとかおしゃれなところとか礼儀正しいところとか趣味がいいところとかいつも本を読んでいるところとか男は概して中性的で女性は案外奔放なところとか。生活臭がないと批判的に言われたりもする村上春樹的登場人物だがまあでもそれは自分の生活臭とは違うということだろうからね。ごはんは食べるわけだし風呂にだって入り仕事もしてセックスもすれば酔っ払って二日酔いにもなる不機嫌になってケンカもする。同じことやっても西村賢太さんの小説の登場人物たちの生活臭とはそれは確かに違うかもしれない(笑)。そういえば非常に礼儀正しい主人公の「ぼく」なのに事務所の先輩で3つ年上の雪子と所長の姪の麻里子にだけは最初から「さん」付けでなく呼び捨てだった理由について書いている感想もあった。ネタバレになるがそういうのは面白いなあ。僕もはじめ不自然に感じた。けれど小説をくり返し読むと地の文ではそうだが会話文のなかではちゃんと「麻里子さん」と呼んだり雪子に対しても丁寧な言葉で話しかけたりしていることがわかる。この小説の全体の構成というか成り立ちを考えれば彼女らだけを呼び捨てにする理由はやがてしっくりくるのだ。そこであらためて作者の気配りの細やかさ確かさに感服させられるだろう。 

火山のふもとで

火山のふもとで

 

  

 高橋治『風の盆恋歌』

ではいよいよ最後5冊目。一般的には夏の盛りというより夏の終わりというか秋のはじめというイメージかもしれませんがそれでもなぜか夏になると毎年くり返し読みたくなる(事実そうしている)のが高橋治の『風の盆恋歌』だ。越中おわらの風の盆の祭の日に会うことを約束した男と女の道ならぬ恋を描いた恋愛小説である。若いころに遂げられなかった恋が数十年の歳月を経ていま一度よみがえり燃え上がる。というか気取っていえばそうだけどはっきりいって不倫小説ですよ不倫。プリンじゃないよゲス不倫。いやいやゲスかどうかは第三者の判断に委ねるしかないわけだけどもね。お互い家庭もある男女なんだから。ともかく世間的にいうといまどきもっともセンシティブでディープなテーマを扱った作品なのは間違いない(笑)。でもたまらなくせつないんですよこれが。胡弓の音色という小道具のちからに負うところも大きい。勝手なこというようだけど倫理観から毛嫌いするというほど高潔ではないがなんとなく不倫ものは僕も苦手な分野なのにこの小説とついでに『恋におちて』という映画だけはなぜか別腹なのだ。内容について書けば書くほど顔をしかめる人が出てこないとも限らないのでまずこの本についてはともかく一読してください批判はそのあとからいくらでもできるからねんと言いたい。きっとあなたも不倫したくなりますよ。いやいやいやいやそうじゃなくてそうじゃないけど夏がくると読み返したくなる本5選最後は『風の盆恋歌』を紹介したところで以上おしまいにします。そういえば『恋に落ちて』という映画のロバート・デ・ニーロさんとメリル・ストリープさんが運命的な出会いをしてまさしく恋におちるのがクリスマス・イヴのニューヨークの本屋さんという設定もステキでしたね。映画は冬の話だった。 

風の盆恋歌 (新潮文庫)

風の盆恋歌 (新潮文庫)

 

5作を選ぶにあたっては国内の小説というくくりを意識したわけではなかったがたまたまそういう結果になった。結果にとくに意味はない。もちろん海外の文学にもたとえば「それは人類がはじめて月を歩いた夏だった」という素敵な書き出しではじまるポール・オースターの『ムーン・パレス』やひと夏の美しくも儚く哀しい出来事を描いたフィッツジェラルドの傑作『グレート・ギャツビー』などこれらは夏のイメージに限定せずとも僕の生涯のベストに挙げたくなるような本もある。あなたの夏がくると読み返したくなる本もぜひ教えてください。なおこのエントリは昨年の夏に投稿した記事を大幅にリライトして再投稿するものです。  

ムーン・パレス (新潮文庫)

ムーン・パレス (新潮文庫)

 

  

グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)

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