ヒロシコ

 されど低糖質な日日

『劇場』(又吉直樹)を読んで結末ネタバレありの感想書きました/でもこれ恋愛小説ちゃうねんで

又吉直樹さんの『劇場』を読んだ。発表当初から「恋愛小説」という触れ込みだったが、苦しくて苦しくて僕はどうしてもこれを恋愛小説としては読めず、いっそ途中で自分をその呪縛から解放してやると、あとは案外楽に読めるようになった。そうして最後の一行までたどりついた結果、せつなさで胸が張り裂けそうになって泣いた。

無名の劇団を主催する主人公・永田は、街でナンパした沙希という女性と恋人同士になる。ところがいつまでたっても永田の劇団は日の目を見ない。永田は、昼夜と隔てず働く沙希に寄生するヒモのような存在になっていく。そうしてとうとうふたりに別れのときがやってくる。

――というような話です。ありがちな恋愛小説、もしくは夢を追って東京という大都会に憧れ上京してきた若者たちの青春小説、というふうにも読めます。

さて、あれほどまでに僕が苦しんだのには理由があって、僕には沙希の気持ちが少しも理解できなかったからだ。正直言うと、最後まで読んでなおわからない部分はある。

沙希はなぜ永田のような男についていったのだろう? あまつさえ一緒に住むようになったのだろう? そもそも沙希は永田のどんな魅力に惹かれたのだろう? なぜもっと早く見切りをつけて別れなかったのだろう? なぜいったん離れた相手の元へ一時的とはいえ沙希は戻ってくるようなことができたのだろう? なぜ? なぜ? なぜ?

あるいは僕には到底恋愛などというものがわからないのかもしれない。男女の機微というものがわからないのかもしれない。女心というものがちっともわかっていないのかもしれない。だからモテないのだ、と看破されるのは仕方がないとしても、だから恋愛小説が読めないと思われるのは心外で、癪に障る。

みっともなく言い訳するようでアレだが、永田の魅力を言語化するのは野暮だとしても、その野暮な極みの僕みたいな男にも、もう少しわかりやすく永田の魅力を伝えてくれたら、という恨みは残る。だって、永田はあまりに面倒くさすぎるもの。とにかく七面倒くさい。徹底したこじらせ系なのだ。

「救いようがない男」という安易な堕落に逃げ込み。自分だけは居場所を見つけて上手く救われている人も羨ましい。自分は彼等と行動は似ているかもしれないけれど、実態は全然違う。僕には完全に負け切れない醜さがある。サッカーゲームに熱中している横顔を恋人に見せながら、これをなんとかストイックな一面として受け取ってもらえないかなどとせこいことを考えている。(p103引用)

理屈っぽい。僻みっぽい。嫉妬深い。自意識過剰だし、言行不一致だし。裏の裏が表にならない人間である。沙希は、正直すぎて複数の感情が同時に顔に出てしまう。一方の永田は、表とは別の裏の感情が見え隠れするならまだしも、その裏をこじらせた結果一周回って表に戻るでもなく、つまり裏の裏が表にならず、元々の表とはまるで異なる別の表の感情が表出する、そういう超面倒くさい人間なのだ。 

自意識過剰などという言葉があるせいで、自分が感じるあらゆる感覚や感情は真実ではなく、自分の弱さによって増幅させられているのだと思わなければいけなかった。(p130引用)

ね? こんな男にあなた惚れます? しかもね、大事なことだから書いておくけど、面倒くさいだけならともかく永田のやってることって沙希に対する完全なモラハラなんだよなあ。明らかに沙希は永田によって心身とも壊されていってるのだから。

というあたりが、僕がこの小説を恋愛小説として受け入れがたかった大きな理由なのでした。まあ詳しくは本書を読んでください。僕の言ってることきっとすぐわかるはずですよ。

ただ、そうはいっても、しょせん男と女のことはその当事者同士でなければわからないことは確かにあって、長年連れ添った夫婦でなくても、たとえ恋人同士の間柄であってもそれは同じことなんだと思う。

昔は貧乏でも好きだったけど、いつまでたっても、なんにも変わらないじゃん、でもね、変わったらもっと嫌だよ。だから仕方ないよ。(p203引用)

第三者の介入を拒む関係というのは厳然として存在するのだ。不思議なもので、永田のような男とっとと別れちゃえよと苛々しながらも、いざ正義感とか親切心からふたりの仲を引き裂こうとする青山や居酒屋の店長や田所たち(などという人たちがいて)に、僕はいつのまにか無性に腹が立っていた。そういういきさつを笑って聞き流す小峰(というこれまた憎たらしい天才がいるんですけどね)にもむかっ腹が立った。

なんちゅうのかなあ、永田のような男を一方で軽蔑しながら、ひょっとしてどこかで彼のような生き方に憧れ(?)ている自分がいるというような空恐ろしいことを否定しきれないのだ。「完全に負けきれない醜さ」さえもとうに諦めた、ただのヘラヘラと世間体を気にして生きる習性が染みついただけの自分というものへの苛立ちや嫌悪感が、僕のなかの永田への憧れを抑制できない。

あるいは又吉さんが永田そのものだとは思わないまでも、又吉さんのなかにも僕と同じような感情のしこりがあるのではないのかなあと想像したりね。それにお笑い芸人でもある又吉直樹さんは、実際たくさんの永田と沙希のような恋人同士の出会いと別れの場面をその目で見てきたかもしれませんよね。

ともかく、これが恋愛小説でなければ何かと問われれば答えに窮するのだけれど、純文学とはこうで恋愛小説はこうでエンターテイメントとか芥川賞とか、そういう呪縛を外しても圧倒的に面白いものはそもそもそんな枠組みやお仕着せなど関係ないのだろう。

のんきな奴等がふざけ合いながら何気ない日常を過ごし、でもその心には深刻な苦悩を抱え、それが表出されるのは必ず決まったように後半で、最後は無理やり泣かそうとするようなものが特に嫌いだった。(p110引用)

そんな永田が、いまや飛ぶ鳥を落とすほどの人気劇団(小峰主催)の公演を見た直後に洩らした感想というか、いみじくも悟った理屈によれば、

次元が違った。僕が批判的に捉えていた要素などは、本人たちにとってはどうでもいいということが公演を観てわかった。そもそもの力が強いから、理屈やスタイルで武装化する必要がないのだ。(p112引用)

推して知るべしで、僕も、苦しいなあと思いながらこの小説を読んでいるうちに、最後にはまんまと又吉さんの力量に泣かされてしまった。誰かの力強さを感じるのは同時に自分の弱さを見せつけられることになる、としてもね。世の中には心地よい敗北だってある。

沙希が学校の男友だちにもらったというバイクに、促されるまま永田は跨って公園の付近をぐるりと一周してくる。すると物陰に隠れていた沙希が両手を広げて飛び出してきて、「ばああああ!」と驚かすように言った。それを無視して永田はさらにもう一周もう一周とバイクを駆る。そのたびに「ばああああ!」とくり返す沙希。

かつて一緒に暮らした沙希のアパートの部屋で、いよいよ永遠の別れの瞬間がやってきた。猿のお面をかぶった永田が沙希にむかってなんどもなんども「ばああああ!」をくり返す。日常も劇場も、明確な区別などできない。この鮮やかな幕引きに僕は素直に感動してしまっていた。又吉さん、上手いなあ。

『劇場』とっても面白かったですよ。 

 

 

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