ヒロシコ

 されど低糖質な日日

女性のズボンのチャックが全開していたらそれを相手に教えてあげるべきだろうか?

水曜日。午後のうっつら眠くなる時間帯を襲った1時間あまりに及ぶ東京大停電。あとからわかったことだが、都内に電気を供給する埼玉県の無人変電所の地下施設内での火災が原因だったらしい。すわテロか、と職場でも一時騒然となった。結果は自然発火による火事だという。その程度のことであれほど大規模な停電につながるのかという驚きと、よくぞ1時間という短時間に復旧できたものだという驚きの、ふたつの相反する驚きがあった。

どこかの国会議員が、大停電の原因を事細かく場所まで特定して情報開示するのはいかがなものかという苦言を呈したらしいが、その是非はともかく、なにも原発施設などを狙わずとも電気や水道水などのインフラ供給施設にちょっと手を加えるだけでかなり大規模なダメージを都市に与えることができるというのは、2020年の東京オリンピック・パラリンピックを踏まえた上でもあらためて貴重な教訓となったのではないかと思う。

という優等生的な感想とは別に、うちの下の子は、ちょうど家のパソコンでワードの文章を作成中、突然この停電に見舞われたようだ。さいわい一旦は失われたデータも1時間後無事復元されて事なきを得たそうだが、こういう悲喜こもごも(喜というのはなかなか想像できないが)は大停電につきもので、ことがもし夜の時間帯に起きたものだったら、不謹慎なことも含めてさまざまなドラマが生まれたかもしれなかった。

さて、その夜はお楽しみの『相棒』シーズン15。人を呪い殺す女が絡んだ殺人事件だった。いずれも彼女を姉と慕う幼馴染の男が彼女を被害者から守るために犯した事件で彼こそが真犯人ではないかというミスリードを誘いながら、実際のところやっぱり彼女自身が殺人を犯していた、という結末を途中から僕は予想。しかし見ているうちにいつのまにか転寝をしてしまった。

あとからカミさんに「どうだった?」と聞いたら、僕の予想はほぼ的中していたもよう。ただし、今回は初回スペシャルにしては扱う事件が例外的に小さな事件だった(赤いカナリアとか出てこない)のと、警察学校を卒業していきなり警視庁広報課に配属された右京さん(水谷豊さん)の相棒こと冠城亘(反町隆史さん)が、いかにして特命係に人事異動になるかというそっちの方のストーリーが大前提なので、事件そのものは添えもの言ってみればどんなものでもよかったということなのだろう。

翌、木曜日。職場で60過ぎのおっさんに「ねえ○○さん(僕のこと)、女性のズボンのチャックが全開していたら、○○さんならそれ相手に教える?」と突拍子もないことを訊かれる。「どうかしたんですか?」と逆に訊き返すと、「いや今朝ね、電車のなかで運よく座ることができたら、目の前にすらりと長身の美人が立ったんだけどさ。その女性のズボンのチャックが開いてたんだよ。全開。だから俺、『もしもし、チャック開いてますよ』とこっそり教えてやるのが親切なのか、それとも黙ってるのがエチケットなのか、ずっと悩んじゃってとうとう一睡もできなかったんだよね。結局黙ってたんだけどさ」と言う。

「それ絶対黙ってるのが正解ですよ。下手したら痴漢とかセクハラで訴えられますよ」と答える僕。すると「だろうねえ、怖いよねえ」とおっさんもホッと胸を撫で下ろすしぐさ。「いやもうずいぶん前なんだけどさ、同じような状況でつい親切心から教えてあげたら、すごくイヤ~な顔されて、お礼も言わずそそくさとどっかへ逃げて行っちゃってさ」とのたまう。この人、絶対モテない人生送ってきただろうなあと咄嗟に僕は(自分のことは棚に上げて)そう思ったのでした。

夜は『ドクターX』シーズン4。流行のキーワードを随所に散りばめながら微妙に笑いのツボをくすぐってくる。今回から泉ピン子さんと西田敏行さんという、僕的には芸能界の2大下品な(ホメてます)俳優を併用するあたり、ことさら主演の米倉涼子さんの美しさを引き立たせることに力を注いでいる感じ。

番組冒頭、大門未知子ドクターが、泉ピン子さん演じる掃除婦のおばさん(というのはウソだと直感でわかる)が働いているというだけの理由でなぜ縁もゆかりもないニューヨークの救急病院でいきなり手術の執刀ができたのか、それが疑問だったが、ピン子さん(実は今度の大学病院の副院長)はリサーチが趣味なんだという説明があとからあってなるほど話の辻褄はいちおう合うのかと納得。はじめから彼女に目星をつけて接触したというわけだったのね、ピン子さん。

あとはまあおおむね可もなく不可もなくのいつもの「ドクターX」テイスト。今回は遠藤憲一さん演じる海老名先生という(ああ見えて案外骨のある)癒しキャラがいないのが、僕個人的には残念だった。そういえば『相棒』でも鑑識の米沢さん(というポップな存在が)今季から不在となったのが寂しい。

高橋源一郎さんの『悪と戦う』を読む。あいかわらず平明な語り口で、なにがいったい「正義」でなにが「悪」なのかというそうとう難しいテーマに挑んでいる。スト―リーはすごくシンプルだ。主人公のランちゃんが、次々と襲いかかってくる「悪」と戦いながら、時空の隙間に落ちたランちゃんのパパやママを救うというもの。

まず僕が感じたのは、作者の高橋さんが、ご自身のふたりのお子さんたちがもう少し大きくなってこれを読んだときに、「正義」とか「悪」というテーマについてじっくり考えられるように書かれた本だなあということです。だからといって子ども向けなどと言いたいわけじゃない。たしかにあっというまに読めてしまう。が、ひとたび考えだせばキリがないほど時間がかかる、とてつもなく難解な読書体験だった。

この本は手にとって実際ページを開いてみるとたちまちわかるように、行間がたっぷりとってあるのだ。文字も大きい。ついでに上下左右にも余白がふんだんにある。後半には文字より余白の方が多いページもあるくらいだ。いってみればその行と行の隙間、文字と文字の隙間、ページの余白部分に、ランちゃんのパパとママは落ちているのだとも考えられる。それをランちゃんとともに救い出すのが、読者である僕のつとめなんだと思った。

「行間を読む」という言葉があるが、文字どおり読めば行と行のあいだのなにも文字が書かれていない空白部分を読むということですよね。もう少し難しく言うと、作者の真意を読み解くという意味になる。こういうの昔からよく国語のテストに出てきた。「作者はここでいったいなにが言いたいのか?」的な。実体がないものを読まなきゃいけない点では、「空気を読む」というのに似ているかもしれない。

僕はどちらもどうも苦手です。なんでなにも書いてないことを、こっちであれこれ推し測ってやらなければならないのかわからない。小説家や評論家は、とにかく原稿用紙になにか文章を埋めてそれでお金を得ているはず。それならば読者にあえて読むためのスキルを求めたり、試すようなことをせず、言いたいことがあれば行間ではなく正々堂々行の上に書けよ、なんてね。ナマイキなことを言えばそういうふうに思うのだ。

それに、白状すると実は僕は昔っから隙間が怖かった。タイムスリップ中に時空の隙間に落ちて戻ってこられないなんて、最悪もいいところ。現実的な話でも、もし地震なんかでパックリ開いた地面の裂け目に落ちたりしたらと考えるだけで、たちまち発狂しそうになる。つまり「隙間恐怖症」なのだ。

それでもいちおう僕はランちゃんといっしょに「悪」と戦いながら、時空の隙間に落ちたランちゃんのパパとママを救い出そうとがんばった。行間も余白も、だから決して読み飛ばしてはダメだと歯を食いしばって。具体的には、その隙間その余白のぶんまでじっくり時間をかけて読んだ。作者の真意を読み解くなんていうとおおげさになるけど、書かれていることを隙間や余白のぶんも意識してじっくり読んでみるだけで、気分はずいぶんちがったものになる。

もう「行間を読む」というのは、そういうことでいいんじゃないかなあと思った。そして「空気をよむ」ことだっておなじように、まずは人の話をじっくり聞いてみる、でいいことにしようよ。余りにも先回りし過ぎて他人の気持ちを忖度し、なんでもかんでも気を利かせて行動することじゃなくね、あるいは逆にアクションを起こさないであえて看過することではなくて。 あ、これは例の女性のズボンのチャックが云々という話とは(同じ隙問でも)なんも関係ないので、変な気を回さないように。 

「悪」と戦う (河出文庫)

「悪」と戦う (河出文庫)