ヒロシコ

 されど低糖質な日日

僕のようなおじさんがよそのおじさんのことをなんと呼ぶか問題について考えてみた

僕のようなおじさんが、よそのおじさんのことをなんと呼ぶか問題について考えてみた

僕のようなおじさんが、よそのおじさんをつかまえて「あのおじさん」などと呼んだり、同年輩の人たちのことを十把一絡げにして「おじさんたち」ということに対して、僕にはいささかのためらいがある。自分だけまだ若いつもりでいるようでくすぐったい。自分だっておじさんのくせに、ともうひとりの僕が嘲り笑う。誤解のないようにいっておくが、自分が他人からおじさんと呼ばれることにはもはやなんの抵抗もないのだ。だって正真正銘のおじさんなんだから。


たとえば相手があきらかに年老いた「おじいさん」だったらそう呼べばいいし、自分よりひと回りも若ければいっそ「おにいさん」でもいいと思う。なんといっても困るのは、「おにいさん」の上限から「おじいさん」の下限のあいだに属する自分とおなじくらいの年代の人たちだ。

そういう人たちのことを、ではいったいなんと呼べばいいのかしら、としょっちゅう迷うんですね。ためしにうちのカミさんに、「あんた、そういう場合なんていう?」と尋ねてみたら、間髪を入れず「おばさん」と答えやがりました。「自分だっておばさんのくせに」とひごろから僕が内心思っていることをいって皮肉ると、「まあそうなんだけどね」と、おばさんであるカミさんは少しも悪びれず苦笑いする。

「私がオバさんになったら、あなたはオジさんよ」という歌が昔流行ったけれど、逆もまた真なりで、僕がおじさんになったのだから当然カミさんだっておばさんになった(はずな)のだ。そんなわけでいっそ面倒くさいから、ちかごろ僕は自分のことを「おじーさん」というふうにいう。「おじいさん」ではなく、ちょっとふざけて、ふざけてというか、そこにちっぽけなプライドを紛れ込ませて、「おじーさん」。活字にすれば微妙に違うだけで、発音してしまえばどっちも ojisan (ojiisan)なんですがね。気持ちのなかでは雲泥の差。

小沼丹の随筆集『小さな手袋/珈琲挽き』に収められている「蝙蝠傘」という一篇に、ある日デパートの傘売り場に傘を買いに出かけた小沼丹が、子どものころからなじみの手で拡げる傘が一本も無いことに驚き、店員の女の子に、「ボタン式でない傘がなぜないんだ」と訊いたところ、こっちの方がずっと便利ですよ、と不思議そうな顔をされるという話がある。

小沼が、便利な傘じゃなくて不便なやつがほしいのだといくら女の子にいってもはじまらず、とうとう傘は買わずに帰ってきてしまう。不便なやつがほしいのだ、という昔気質の頑固さがにじみでたところが、僕はとくに大好きでなんどもくり返し読んだ。そう遠くない将来、偽物の「おじーさん」は本物の「おじいさん」になるだろう。小沼のような、頑固で偏屈で小うるさくて融通が利かなくて、ちっともかわいげのない正真正銘のおじいさんに、僕はなりたい。

f:id:roshi02:20160330185645j:plain

 

検索窓のない暮らしなどもはや想像もできない

一方で、僕が本物のおじいさんになっても、おそらくもう絶対手離せないであろう便利さも、実は僕らは既に手に入れてしまっている。それがインターネットであり、その窓口とでもいうべき小さな検索窓のことだ。いまやいかなるSNSにも検索機能はもれなくついている。ユーザーにしてもトピックにしても、あの小さな検索窓の中に適当なキーワードさえ入力すれば、たちどころに目的のものが探せるし、少なくともいくつかの候補は簡単に絞り込める仕組みだ。

そればかりか個人のブログや日記にさえ、検索窓はあって、ブログ内のアーカイブの中から必要な記事だけをあっという間に抽出してくれる。まるで優秀な秘書がひとりついているみたいだ。そうして僕らの生活の大部分は、検索窓なしにはもはや立ち行かなくなった。どこへ行くにも、何を買うにも、どんな料理を作るにも、誰かに何かを頼むにしても、まず、それに相応しいヒトやモノや手段を検索するのが当たり前になった。

あまりにもふつうになりすぎて、そのことの便利さやありがたみを感じることもなくなってしまったのかもしれませんね。それこそ小沼のいうボタン式の傘どころの話ではなく、ひとたびこういう便利さに慣れてしまうと、いまさら手で火をおこしたり(まあそれは僕が生まれたときからないけど)、わざわざ重い荷物を担いで長い距離を歩くなどということは面倒くさくなったように、検索窓のない暮らしは考えられなくなった。

だけどそれも時代の趨勢だから、そのこと自体を否定したり、「昔に戻ろうよ」などと声をあげるつもりは毛頭ない。僕自身も検索窓のない生活に戻りたいわけでは決してない。ところが、だ。最近ふと、僕はその便利な検索窓さえ利用していないことがあるのに気づいて驚いています。たとえばAmazonのおすすめなどもそうだし、いわゆる無数にあるニュースサイトやまとめサイトといわれるものの存在もその要因のひとつだ。

たとえば特定のニュースサイトを日課のように短い時間でひととおりチェックするだけで、あっというまにほぼ必要十分な情報を僕らは簡単に手に入れることができるようになった。少し古い話でいえば作曲家のゴーストライター騒動、万能細胞論文の切り貼り疑惑、大物芸能人の麻薬逮捕劇、近々の例では元プロ野球選手の覚醒剤疑惑(疑惑ではなくなったが)、テレビタレントやミュージシャンの不倫騒動、売れっ子コメンテーターの経歴詐称疑惑、野球賭博問題などなど。

そのときどきの時事問題・芸能ゴシップからスポーツの結果、評判の映画や本、料理のレシピやコンビニスイーツにいたるまで、知りたい情報もそれほど知りたくない情報も、検索窓にキーワードを入力するまでもなく、「こんなのどうですか?」「欲しくないですか?」「探してませんでしたか?」「関心ありますよね?」と言葉巧みに、向うから僕の方に近づいてくるようになった。

まあ僕自身の興味の対象なんて、けっして広くも高尚でもなく、せいぜいそのあたりに転がっている程度のものなので、悲しいことに、だいたいそのてのお仕着せだけでこと足りてしまうのだ。まったく便利な世の中になった(なったのか?)。まるで不思議な玉手箱を開けて一足飛びにおじーさんになった浦島太郎ではないが、ひと昔前にはとても考えられなかったこと。ありがたいような余計なお世話なようなね。

f:id:roshi02:20160328130827j:plain

 

知らず知らずにワイドショー番組のコメンテーターを演じてしまう

さらに困ったことに、今度はそれら手軽に仕入れた情報について、イッチョカミしたい、ひとつブログでも書いてみたい、気の利いたコメントをいいたい症候群に僕はしょっちゅう悩まされている。現在世間をにぎわしている話題も、どうせあと1、2年もすれば注釈なしには思い出すのも困難になる可能性大ですよね。だからこそ、いまなにかいっときたい。

それも事件や騒動について怒りを表したいとか、渦中の人物に信じてます応援してますというエールを送りたいとか、そういう直接的なアクションを起こしたいわけではなく、それらの騒動を自分がどう見ているか、もしくは見ている自分というものについて語る、一種プチ評論家、ワイドショー番組のコメンテーターを演じてみたい、ということなのかもしれません。それこそいままさに絶賛話題沸騰中のショーンK氏のように(という言い回しも、年末にはそういうのあったよねーになり、数年後にはなにそれ? になってしまうだろうけど)。

実際のショーンK氏がどうであったのかはともかく、僕の場合は彼の劣化版もいいところなので、しょせんテレビや雑誌での受け売り程度にしか知識や判断材料はないわけで、あとはみんな憶測に基づいた想像や印象、一般論は語れても具体的なことになるとほとんど語れるものはないのだと恥じ入るばかりだ。それでも、ついやっちゃう。あとから悔やんで、ああそういえば、と庄野潤三の『自分の羽根』にあった言葉を僕は思い出すのだ。

それは、お正月の羽根つきに寄せた一文だった。目の前に飛んできた自分の羽根だけを打ち返したい。私の羽根でないものは打ち返さない。世間の評価などは関係なく、自分が大事だと思うことについて書きたい。自分にとってどうでもいいことは、世間がなんといおうと書かない。どうせたいたしたことは見たり感じたりできるわけではないのだから、当たり前なことでもどうしても自分は言っておきたいことを書く。それが自分の打ち返すべき羽根だ。と、うろ覚えで細かいニュアンスについては自信がないのだが、だいたいそんなふうなことが書いてあった。

自分には直接関係ない他人のプライバシーの問題には立ち入らない。自分を実際以上に大きく見せたり飾り立てたりしない。要するに、ふつうにおじーさんはおじーさんのままでいること。これを僕は、いつも戒めの言葉としているけれど、戒めを思い出すのはたいていことが終わった後で、なぜ先に思い出さないかと、自分の頭の悪さを悔やんでばかりです。ショーンK氏も、あるいはいまそういう心境なのかもしれませんね。  

小沼丹 小さな手袋/珈琲挽き  大人の本棚

小沼丹 小さな手袋/珈琲挽き 大人の本棚

 

 

自分の羽根 (講談社文芸文庫)

自分の羽根 (講談社文芸文庫)