ヒロシコ

 されど低糖質な日日

『フラニーとズーイ』に学ぶ糖質制限を継続する極意

人間が一人前になるために必要などれか3つのこと

たしか高校生のころだったと思う。社会学者の加藤諦三さんの本をむさぼるように読んだ一時期があった。そのなかで、誰かエライ人の言葉だと紹介されていた気がするが(てきとー)、「人間が一人前になるには、浪人するか、大病するか、刑務所に入るか、そのうちのどれかひとつくらい経験したほうがいい」だったかなあ、とにかくそんな言葉を知って、当時は「ふ~ん、そうなのか」程度にぼんやり言葉の意味を考えたことがある。

その後、僕は一度大学受験に失敗し、一年間浪人生活を送ることになった。さらにそこからウン十年経って、糖尿病および糖尿病網膜症を患い、その治療の過程で両目の白内障の手術もすることとなり、人生ではじめての入院を経験した。あとは刑務所に入ることだが、それだけは幸か不幸かいまのところ一度も経験がない。

浪人生活は予備校に通い、そこの寮に住んだので、なにほどのこともなく勉強に専念することができた。僕の周りでも一浪はそれほど珍しいことではなかったので、いうほどの肩身の狭い思いもせずに済んだ。いまは逆に少子化と大学の多様化で、浪人生が減り、大手予備校が経営の縮小を迫られているとか。時代も変われば変わるものだ。

入院については、それはもう頭のなかの疑問符と緊張の連続だった。着替えはどのくらい必要なのか? 風呂に入れないらしいのでパンツはいつ穿きかえるのか? いつもより早い消灯時間で眠れるのか? いびきはどうしよう? 留守のあいだの子どもたちの食事や洗濯はどうしよう? メールは使えるのか? 寂しくないか? また家に帰ってこられるのかな? などなど……。

病院や症状によっては日帰り手術も珍しくないという白内障の手術なんだけどねえ。僕の場合は、ほら、結構重篤な糖尿病患者だったわけだから。ところがいざ入院してみると、清潔な病室で看護師さんたちもみんな親切で、テレビもラジオもあれば本も読める、食事だって勝手に出てくる。むしろ家にいるよりリラックスできて、やや肩透かしだったなあ。

そんなわけで、僕も無事「一人前の人間」の仲間入りをしたわけですが、実際にはそんなもの経験したからってとても一人前とはいえそうにない。もっともくだんの話の趣旨は、「少しは挫折した人のこころの痛みがわかる人間になりなさい」ということだったと思うので、その点では浪人や入院の経験はけっして無駄ではなかったのかなあと思っています。

僕の入院経験もあとからは笑い話になったが、なんにしてもはじめてのことというのは、勝手がわからずいたずらに緊張したり、必要以上に心配してオロオロしたりするものだ。場合によってはパニックになることだってあるかもしれないね。そしてそういうことでいえば、学校を卒業して就職するのも結婚も会社を途中退社するのだって、すべて経験といえば経験。結婚式のスピーチも葬式の喪主もPTAの役員活動も、もっと小さな話では、自分で食べる分のパンを自分で焼くことにだって、なんでもやってみなければわからないよろこびや苦労がある。

経験とか体験とかって、要するに「慣れ」なんだよね。どんなものにもはじめてがあり、はじめからうまくいく人と、はじめてで失敗しちゃう人がいる。でも一度経験してしまえば次からは(前よりは)少し気楽にやれるし、ずっと上手くやれるかもしれない。仕組みも要領もクセも加減もわかるようになる。

毎朝、僕はスクランブルエッグをつくるのに生卵を割ります。生まれてはじめて生卵を割る人に、言葉だけでそのチカラ加減を上手に伝えることは難しい。自分で割ってみて、はじめてそのことが身につくのだと思うのです。

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ところが今度は慣れてくると情けないことに、ときとして、いま自分がやっていることの本来の目的を忘れてしまうことがあるのだ。あれほど痛い目に遭ったにもかかわらず。喉元過ぎればなんとやらで。本当に恐ろしいのそこだと思う。

糖尿病の治療のために続けている糖質制限にも、正直いうと、ときどきふっと「あれ、これなんのためにやってるんだろう? 僕はいったいなんのためにごはんやスイーツを我慢しているんだろう?」と、わからなくなるときがあるのだ。知らず知らずのうちに相当なストレスを溜めこんでいるに違いない。きっと誰にでもそういうときがきます。くると思います。

 

「太ったおばさんのためにそれを続けなさい」というサリンジャーは言った

うちのカミさんは子どもたちがまだ小さかったころからずっと、「なんでこんなことしなくちゃならないの? なんで我慢しなくちゃいけないの?」と訊かれると、「神様が見てるからね」と彼らにいいきかせてきた。なにをする場合においても、いますぐは誰にも評価されなくても、誰からも気づいてもらえなくても、まして偉い人なんて誰ひとり見ていなくても、人知れずそれをすることに意味がないなんてことはないんだよ、と。「きっと神様は見てるからね」

僕はただちに、サリンジャーの『フラニーとズーイ』に出てくる有名な「太ったおばさん」のエピソードを思い出す。グラス家の幼い兄弟たちは、当時から優秀で地元のラジオ番組にたびたび出演していた。ところがラジオ番組の収録なのにかかわらず、靴を磨きなさいという長兄シーモアの説教に、やはり「誰も見てないのになんでこんなことしなくちゃいけないの?」とキレる5男ズーイ。そんなときシーモアは、べつだん詳しい説明をするでもなくただ「太っとおばさんのためにそれをしなさい」とだけいうんですね。

シーモアにそういわれてしかたなくそれを続けるズーイは、不思議なことにいつしか太ったおばさんの姿が具体的に見えてくるようになる。そうして、ずっとたってから今度はズーイが妹のフラニーにこの話をしたところ、フラニーもかつてシーモアから同じように太ったおばさんの話を聞かされたのだと打ち明ける。僕はこのエピソードになぜかジーンと震えがきてやまない。

長兄シーモアのいう太ったおばさんとは誰のことか? もちろん、太ったおばさんは、現実に存在する太ったおおばさんのことをいってるのではなく、たとえば、いまの自分にとってこの太ったおばさんは誰か? ということをいつも忘れずに考えなさい、という意味なのだろう。太ったおばさんは誰の前にもいて、あなたもわたしも誰もが誰かの太ったおばさんたりえる。自分がいますべきことを、誰ひとり見ていなくても、あなたの太ったおばさんのために続けなさい、ということなんです。

神様とか目の前に実際いない太ったおばさんなどというと、たちまちそれだけでなにやら宗教くさいと敬遠してしまうかもしれないが、「自分に誠実でありなさい」というふうなことと同じだと考えてもいいと僕は思う。

僕はなぜ糖質制限を続けているのか? この自分で自分のやっていることの目的がときどき靄のなかに消えて見えなくなってしまいそうになったとき、僕は、病気治療のためという大前提ではどうにも処しきれなくなってしまったとき、僕は、自分のなかの太ったおばさんのために続けよう、と思うことにしています。

僕がやってることを誰も見ていなくても、誰も知らなくても、もしかしたらどこかで太ったおばさんが見ているかもしれないから続けよう。そう思うことで、ともすると忘れてしまいがちな糖質制限を続ける目的を見失わないように心がけているのだ。そんな毎日だといってもいい。肉や魚を好きなだけ食べられて、間食もできて、だけど糖質制限も長く続けるというのは、けっして楽なことばかりではないのだ。

あ、ちなみに糖尿病だからなおさら「太ったおばさん(ファット・レディ)」(僕はおじさんですが)のエピソードがしっくりくるってわけではないよ。

 

明るいパルック

 

こんばんは
僕も、38歳2型糖尿で今月末に左目網膜剥離と白内障手術を控えている身です
ac1 10.2 空腹時血糖240でした
ほんの一ヶ月前までは人生に軽く絶望しておりました
二週間ほど前に糖質制限という存在を知り現在はインスリン食前4単位づつうちつつではありますが糖質制限を併用し110~120になっております(腎臓のたんぱく質負担は主治医の許可済)
僕も左目の視力回復は厳しいみたいですが失明はなんとか避けられそうな状況です
糖質制限をする前は先行きに絶望しかなかったのですが血糖値の変化に励まされ、今は糖質制限のブログを漁りまくってここにたどりつきました
最初から全て拝見させていただきました
真っ暗な未来と思っていてもきちんと周りを見渡せば意外と明るいかもよって気づかされました
希望を頂きほんとうにありがとうございました

どうせほとんど誰も読んでいないだろうと思っていた僕のブログですが、こういううれしいコメントをいただきました。本人の了承を得ていないけれど、誰にでも公開のコメント欄に書きこまれたコメントだったので、こうして記事にしました(が、もし不都合があれば言ってください)。

僕もがんばって糖質制限続けてきてよかったなあと思いますね。このブログを立ち上げてよかったなあと。僕がこのコメントを書きこんでくれた「明るいパルックさん」の太ったおばさんになれたのだとしたら、こんなうれしいことはありません。そして同じように「明るいパルックさん」こそが、僕の太ったおばさんのひとりだったのです。僕の方こそ、希望の光をどうもありがとうございました。  

フラニーとズーイ (新潮文庫)

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人生は「捉え方」しだい 同じ体験で楽しむ人、苦しむ人

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