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『蜜蜂と遠雷』(恩田陸)を読んだネタバレ感想~はじめてのkindle本がこれで大正解だった

恩田陸さんの『蜜蜂と遠雷』を読んだ。タイトルにあるとおり僕にとって初めて読むkindle本。正確にいえばスマホのkindleアプリでは青空文庫の冒頭部分だけとか、恣意的に抜き取った部分をパラパラ飛ばし読みで、とかいうことは過去にもあった。が全編とおして読むのはこれが初めて。

本屋さんで実際手に取ってみた紙の本の『蜜蜂と遠雷』は分厚くしかも2段組。なおかつあまり馴染みのないクラシック音楽のピアノコンクールの話だという情報を得ていたので、正直買って読むのがためらわれた。それがまあ縁あって初めてのkindle(電子書籍リーダー本体)を買うことになり、そのときいっしょに求めたのが『蜜蜂と遠雷』kindle版だったというわけだ。

このあたりの事情については過去記事に詳しいのでよければそちらも併せて読んでいただけるとうれしいです。 

roshi02.hatenablog.com

結論からいうとはじめてのkindle本が『蜜蜂と遠雷』で大正解でしたね。ホント紙の本を買おうかどうしようかと迷っていたのが嘘みたい。それだけリーダビリティが高かった(つまり読み易かった)。この本の内容や構成が格別kindleと親和性が高かったのか。そもそも恩田陸さんという作家がkindleと親和性が高いのか。あるいはそのどちらもなのか。

『蜜蜂と遠雷』に限っていえば、いわゆる群像劇で前述したとおり馴染みのないクラシック音楽のピアノコンクールがテーマだ。ともすれば複雑で難解になりがちな内容と構成にもかかわらず、実際のストーリー展開がきわめて漫画的だったことが大きいと思われる。誤解を招くかもしれないけれど、この場合の漫画的というのは褒め言葉でも逆に見劣りするという意味でもありません。ありのままの印象です。

とはいえ僕はいま現在ほとんど漫画を読まないので、具体的にどのような漫画を想起するかといわれると答えに窮する。かつて貪るように読んでいた時分の記憶をたどると、特定のスポーツ漫画や料理人たちがしのぎを削るそのての漫画や、ずばり音楽を題材にした漫画などがつぶさに思い浮かぶ。

登場人物の造形を幅広く深く掘り下げることよりもどちらかといえばストーリー展開に重きを置いたようなね。それもリアリティのある物語のなかに現実にはありえそうもない話を適宜織り交ぜたような。あとグルメレポーターの彦摩呂さんばりの、「まるで○○の宝石箱や~」的な表現だとかも。もっともいまも昔も漫画はそんなわかりやすいものばかりじゃないよといわれたら素直に項垂れるしかないのですが。

とにかく先を先を読み進めたいという欲求に駆られ、あまり難しいことは考えずやみくもにページをめくっていった感じだ。それほど面白かった。夢中で画面をタップしていった。全体のページ数と現在位置がわかりづらいので、紙の本で目に見えるいまどのくらい読み進めているかという感覚はkindle本では薄い。必要に応じて下部に現われる進行具合を示す「%(パーセント表示)」で測るほかない。気づけば50%を超えていたとか、あれよあれよという間に90%台に達していたとかいう具合でしたね。

ちなみに僕は目が悪いので文字サイズは若干大きめ。そのぶん画面に表示される活字量は少なめだ。要するにページ数を画面換算したらタップしたりスワイプする回数は必然的に多くなるのだった。それから一章一章が短いというのもリーダビリティの高さにとって見逃せない要因だったと思う。

加えて一章のなかでも一人称が頻繁に入れ替わるのが結果的にはプラスに働いていたかなあと思います。操作ミスして画面間を往ったり来たりしても元の場所(話)を探して戻るのが比較的容易だったので。まだ慣れないkindle本の初級者入門編としてはそういった意味で最適だったわけだ。恩田陸さんとkindleとの親和性については恩田さんの他の小説を『夜のピクニック』くらいしか僕は読んだことが(内容を覚えているのが)ないのでなんともいえないんだよね。

先ほど漫画的なストーリー展開と書いたが実際物語の構造そのものはシンプルそのものだった。なにしろ舞台設定は「芳ヶ江国際ピアノコンクール」というほぼ一点突破なのだから。パリの予備予選から芳ヶ江での一次二次三次予選を経ての本選。その一連の流れのなかで巻き起こるコンテスタントたちの成長や悲喜こもごも。

彼らの身内やコンクールを審査する審査員たちや裏方たち、それぞれの苦悩やよろこびを一人称の群像劇で描き出すスタイルだ。なにも難しいことはない。ときおりフラッシュバックでここではないいつかどこかの映像が活字でよみがえることはあっても、ほとんどの舞台や時系列はコンクール会場とその期間に限定される。

タイトルの『蜜蜂と遠雷』が意味するところを考えてみた。群像劇でありながら登場人物の一番目に表記される風間塵(かざまじん)がいちおうはこの小説の主人公といってもいいだろう。作品全体の構成も風間塵のパートにはじまり風間塵のパートで円環のように閉じる。

その彼の父親が旅する養蜂家で彼もふだんは蜜蜂とともに暮らしているのだ。「蜜蜂の羽音は彼が子どものころから耳馴染んだ、決して聞き間違えることがない音」。彼の音楽の原点ともいうべき音。人知れず「蜜蜂王子」と呼ばれるようになるゆえんだ。だから正確には「蜜蜂と」というより「蜜蜂の羽音と遠雷」なのかもしれない。

ではもう一方の遠雷の意味するところはなにか。にわかにはわかりづらい。「遠雷」という直裁的な言葉は僕の見落としでなければ見つからなかった。唯一コンクールの第三次予選直前のこと。ホールから外の空気を吸いたくなった風間塵が雨の中を歩き回る場面にそれらしき記述がある。

塵の師匠である故ユウジ・フォン=ホフマンと師が生前彼に託した「音楽を外へ連れ出してほしい」という遺志を実現するためにはどうすればいいのか。心のなかで師と対話しながら塵は歩く。

塵は空を見上げる。
風はなく、雨は静かに降り注いでいた。
遠いところで、低く雷が鳴っている。
冬の雷。何かが胸の奥で泡立つ感じがした。
稲光は見えない。

蜜蜂が風間塵のメタファーだとすれば遠雷はユウジ・フォン=ホフマンのメタファーだと考えていいだろう。蜜蜂の羽音も遠雷もどちらも同じ自然が作りだす音だ。羽音は繊細で小さな音。すぐ近くで聞こえる。一方の遠雷は低く重厚な音。その名のとおり遠くで聞こえる。そうやって考えてみるとなかなか含蓄のあるタイトルだなあと思う。

僕は風間塵が主人公だろうと書いたが、そうはいっても風間塵に割かれたパートは存外多くない(印象だ)。実際測ったわけではないので正確なことはいえませんが。彼は音楽大学出身でないばかりかコンテストの出場経験もない。自宅にピアノすらないありさまだ。師のホフマンいわく、「彼を本物の『ギフト』とするか、それとも『災厄』にしてしまうのかは、皆さん、いや、我々にかかっている。」と。

ここでいうみなさんや我々というのは狭義ではコンクールの審査員たちを指し広義には審査員も含めた塵のピアノを聴くすべての聴衆(出場者も含めた)ということになる。ある種のトリックスターである。

その塵と対を為す存在がマサル・カルロス・レヴィ・アナトールという同じ歳の少年だ。塵がトリックスターだとすればマサルは正統派のスターである。彼は誰もが認める天才で、クラシック音楽の伝統ある歴史の後継者だ。高身長で見た目もハンサム。「ジュリアードの王子様」と呼ばれる。

蜜蜂王子とジュリアードの王子様。今回のコンクールの審査員のひとりでもあり、マサルの師でもあるナサニエルがマサルのことをこんなふうに評している。

大昔の日本に、大層立派な彫刻家がいてね。
ナサニエルは、唐突に話し始めた。
こんにち国宝になるような立派な仏像を幾つも残している。彼は、もの凄く彫るのが速かったと言われている。全く迷いがなく、まるで頭の中のイメージに手が追いつかないと言わんばかりのスピードで彫っていく。ある日、彼は聞かれたんだそうだ。いったいどうしてそんなに早く造ることができるのかってね。そうしたら彼は、別に造っているわけじゃない、と答えたそうだ。ただ、木の中に埋まっている仏様を掘り出しているだけだ、と。

これは夏目漱石の『夢十夜』第六夜に出てくる運慶の話だ。つまりマサルのピアノも運慶が彫る仏像とおなじなんだよとナサニエルはいっているのだ。僕は『夢十夜』のこのエピソードが大好きだったのでまさかこんなところでこれを持ってくる恩田陸さんの抽斗のバリエーションには感激した。

マサルはコンクールで耳にした塵のピアノ演奏に触発され、現代のバッハやラフマニノフたらんとする自身の内なる野望に気づくことになる。このふたりが圧倒的天才ならば、高島明石(たかしまあかし)は音楽大学出身でも卒業後は楽器店勤務のサラリーマンになった平凡の人。とはいえ塵やマサルと比較すると多少の見劣りはするかもしれないが、彼もまた並み居る音楽家を目指す人々のなかにあっては立派な天才のひとりなのだろう。

正直に告白すると僕は勝手に明石のキャラを『キャプテン翼』における石崎了くんみたいな存在だと脳内変換しながら読んだ。翼くんや岬くんと比べると凡人のように見えるが、彼だって他の大多数のサッカー少年たちのなかに混じれば立派な才能の持ち主なのだった。

脱線ついでに書くと、現実のプロ野球チームの2軍でくすぶっている選手たちだって、少年野球~高校野球と野球一筋の生活を送ってきた過程にあっては誰しもがその土地土地で神童ともてはやされた人々だったのだ。そうしてみると1軍でプレーし、なかでもレギュラーに定着しなおかつ数少ないスーパースターとなる選手ちちの天才っぷりたるや推して知るべしである。

話が大きく逸れた。明石には妻娘がいて彼は音楽の専従者ではない「生活者の音楽」を追及している。今回の芳ヶ江国際ピアノコンクールが最後と決めて応募したが、後述する栄伝亜夜(えいでんあや)に触発され、とうとう音楽家になろうと決意を固めるのだった。

さてその栄伝亜夜。天才少女として幼くしてデビューしたものの、母の突然の死がショックで音楽の世界から逃げるように遠ざかった。今回のコンクールの前までは過去の人と見られていた。縁あってこのコンクールにて復活。かつての天才少女がコンクールの最中もっとも成長著しい進化を遂げる。触媒となったのがまぎれもなく風間塵であり彼の演奏だったというわけです。

主人公は塵でありながらも著者の恩田陸さんは栄伝亜夜にもっとも多くのページを割いている(たぶん)。思い入れももっとも大きい登場人物なんだろうなあと察する。とはいえ再三再四くり返し書いてきたように、『蜜蜂と遠雷』は堂々たる群像劇である。塵にしろマサルにしろ明石にしろ亜夜にしろそれぞれ最高の見せ場がちゃんと用意されているところに恩田陸さんの温かさやさしさが感じられた。ホントそこすごくよかった。

あとこれは余談になるかもしれないが、登場人物の誰ひとりとして悪人が出てこない。そんな小説も逆に珍しいと思った。まあたまにはいいんじゃないかしら。ちなみに本選の最後の演奏者は栄伝亜夜なのだが、彼女の演奏シーンは実はあっさり端折られる。エピローグへと続き、紙切れ1枚に集約されたような審査結果が提示されるだけ。一瞬あれ? と肩すかしを食らった感じになるがすぐさまホッと胸を撫で下ろしたのもまた偽らざる事実だった。

いかに漫画的なストーリー展開とはいっても、そもそもコンクールの審査結果がドキドキするほど気になるような内容とはなっていないことがひとつ。そこにも僕は恩田陸さんの矜持を感じた。今回の結果は彼ら彼女ら天才ピアニストたちにとって単なる一里塚、スタートラインでしかないということをいいたいのだろう。

しかももはや誰が優勝してもおかしくないレベルなんですよということだ。実際そういうふうに本選に残ったコンテスタントたちのピアノ演奏は、豊潤な言葉で書き尽くされてきたのだ。考えようによってはなんと多幸感のある見事な幕引きであることか。ついでいうと示された審査結果には僕は全面的に納得でしたね。これ以上ないってくらいの結果だと思いました。

それから栄伝亜夜の本選演奏が省略されて少しホッとしたいちばんの大きな理由は、僕自身音楽を言葉で読むことにお腹いっぱい、さすがに食傷気味になっていたからだ。活字でではなくそろそろ本物の音楽が聴きたいと思うようになっていた。紙の本をそっと閉じるようにkindleアプリを閉じ、小説に出てきた音楽をスマホやパソコンで検索すればすぐにもピアノの演奏が聴ける。

バルトーク「ピアノ協奏曲 第三番」でも、プロコフィエフ「ピアノ協奏曲 第二番」でも望みの音楽が。kindle本体では現状なかなかそうもいかないが、デバイスによってはそのへんの連携もスムーズにいったりしてなんかそういうところも『蜜蜂と遠雷』とkindleとの親和性の高さをうかがえる大きな要因なんだろうなあと思いました。これで僕自身にもう少しクラシック音楽の素養があればとそこは残念でした。なくても最高に楽しかったですけどね。 

蜜蜂と遠雷

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蜜蜂と遠雷 (幻冬舎単行本)

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『蜜蜂と遠雷』ピアノ全集[完全盤](8CD)

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夜のピクニック(新潮文庫)

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