ヒロシコ

 されど低糖質な日日

『サマーウォーズ』感想(劇場公開時の感想です)

8月18日の金曜ロードSHOWには『サマーウォーズ』が登場する。もはやこのアニメ映画のテレビ放映も日本の夏の風物詩となりつつある。ということはさておき、こっちも恒例になりつつある「僕が以前やっていたブログからこの映画を劇場公開時に見たときの感想を一部加筆修正して再投稿します企画」懲りずにまたやります。

 

『サマーウォーズ』半分だけの感想

面白い。出だしからぐいぐい惹きこまれた。人工知能が仮想空間で暴走をはじめそれを現実世界の人びとが団結して凌いでいく。戦いを挑むこちら側が正義の味方とか○○防衛軍とかじゃないのがよかった。なんなら普通の家族。いやまあかならずしも普通とはいえないか。とある由緒ある家柄の本家の当主である90歳になるおばあちゃんの誕生日に集まった親戚一同。総勢何人だ? すごく楽しい設定だった。

いってみればこの戦争「仮想ネットワークvs親戚のネットワーク」みたいなね。あまり類をみないというかふつう発想すらしない対立軸をポーンと打ち出した。あとのストーリーはその線で痛快に転がっていく。転がっていく渦の中に憧れの先輩とひと夏を過ごせると勘違いしたウキウキの主人公(男子高校生)が巻き込まれる。というようなあらすじです。

よくわからないでしょ? わからなくたって平気です。なんてったってサマーのウォーズですからね。正直インターネットアカウントが取引されて往ったり来たりというあちら側の世界については僕はそれほど興味なかった。むしろ僕の映画の見所・勘所はといえば完全にこちら側の親戚の集まりの方にあった。というのもすべて実体験でその楽しさも煩わしも明快に裏打ちできるものなので。それぞれのエピソードにいちいちああそうなんだよなあと肯ける。

とくにおおぜいの食事シーンがよかった。大きさも高さも違うテーブルを幾つも並べて囲む賑やかな食卓。いとこ同士の子どもたちがまとまって風呂に入ったりするのもよかった。集まって夏の高校野球を見てたりするのもそう。かならずひとりくらい変わり者(鼻つまみもん)がいる。仕事が忙しくて来れないといいつくろう娘婿がいる。本家だ分家だという話題をことあるごとに持ち出したがる長女がいる。新米のお嫁さんがいて人見知りしてなじまない子どもがいて。

それぞれの商売がら電気関係のことになると役に立つ人や自分の店の料理をふるまう人。大工をやってるおじさんは台所のちょっとガタがきたところを手直しする。趣味の釣が玄人はだしのおじさんはきょうの釣果を自慢する。土建屋のおじさんは親しくしてもらっている政治家がいることを鼻にかける。何台もの車に分乗して海水浴に繰り出し浜辺でどんちゃん騒ぎやったりね。まるでフェリーニの映画に出てくるシーンのように。ってフェリーニの映画に親戚の集まりなんてあったかなあ。

いやいやいやしかもこの映画にも親戚一同で海水浴に繰りだすシーンなんてそもそもない。映画のなかに実際あったこともなかったことも僕の個人的な思い出も含めてこうしていたずらに書き連ねてみただけであの濃厚なうっとうしさというか喧騒が鮮やかに甦ってきた。朝顔。すだれ。花札。氷柱。真っ白な入道雲。わずか3日、4日の怒涛のような日々。まさにそれこそがサマーウォーズそのものだと断言してもいいと思う。

一転元いた場所へ帰っていく先々でそれぞれに待ち受ける退屈な日常生活。嵐が過ぎ去ったあと最後にまたたったひとり取り残されるおばあちゃんのこと。もはや映画のストーリーとは関係ない僕の実体験での感傷なのかもしれないが想像するだけできゅーんと胸が苦しくなる。極論すれば仮想空間での戦闘などいっそ僕には必要なかった。僕にはこの映画の半分だけが本当に見たかった世界であとの半分(つまり仮想空間での出来事)はおまけみたいなものだった。

なので半分だけの感想を書きました。もっともそのおまけ部分も十分ハッタリが効いていて醍醐味があったからなにも文句はない。あれだけの戦争(現実世界での大混乱)にもかかわらずさいわい誰も死傷者が出なかったという発表がまたなによりだった。すごくすごく面白かったです。

 

前回までのテレビ放映を見ての感想

テレビ版だといろいろカットされたシーンが目立ってやっぱりそこは残念だった。ウォーズの場面を優先させてしまってサマーな日常場面を削った印象。最初の花札のシーンがないから夏希が侘助に夢中であるという描写が不足。ここがないと主人公の孤立感が立ち上がらない。「おれなにやってんだろう」の台詞も「よろしくおねがいしまーす」の台詞も十分生きてこない。

憧れの先輩と一緒に夏をすごせると勘違いして浮かれた主人公が思わぬ大家族の中にいきなり放り込まれて戸惑い孤立感を味わう。が最後には大家族の一員となることを受け入れ向こうからも受け入れられる。その過程が面白い映画なのだ。劇場公開当時から体制側に取り込まれる映画だという批判もあったが僕は主人公が世の中に受け入れられ自分の居場所をみつけていく映画なのだと思っていた。その考えはいまも変わらない。