されど低糖質な日日

~Ⅱ型糖尿病患者のありふれた日常~

「映画のネタバレはどこまで許されるのか?」問題について考える~『ぼくのエリ 200歳の少女』を具体例として

今回のエントリーは「映画のネタバレはどこまで許されるか」問題です。抽象論ではなく具体例として『ぼくのエリ 200歳の少女』というスウェーデン映画を取り上げながら、ネタバレに該当しそうなシークエンスを何ヵ所か振り返ってみようと思います。

なおはじめに断っておきますが、『ぼくのエリ 200歳の少女』という映画について重大なネタバレを含んでいるやもしれません。というか絶対含んでいます。なので、「あっ、これ以上先は読まずにおこう」と感じた方は、その時点で大変申し訳ないですが引き返すことをお勧めします。

ではさっそくですが、劇場公開時、この映画を見たあとの感想を(以前の)ブログにアップしてからというもの、実はいろいろ気になる点があって他の人の感想なり批評をネット検索したことがありました。すると驚くことに――あ、その前に話が性急すぎてあとあとややこしくなっても困るので、やっぱりはじめに映画のあらすじをざっくり書いておきます。

学校でいじめに遭っていた12歳のオスカー少年は、アパートの隣の部屋に引っ越してきたエリという少女と出会い恋をします。しかし、エリの正体はバンパイアでした。折しも、近郊の町で次々と人が殺され血を抜き取られるという残忍な殺人事件が起きているところだったのです――というようなストーリーです。まさに映画の触りの部分だけ、ホントざっくりですが。

素晴らしく面白いし残忍なシーンもいっぱいあるのですが、すごくきれいなきれいな映画で、ちょうど『ミツバチのささやき』をはじめて見たときのような感動と興奮を僕は覚えました。このての映画、大好きなんですね。ちなみに原作の『MORSE-モールス』も、映画とはまた違った意味でそうとう面白い小説でした。僕は映画を見たあとで原作を読みました。

で、再びさきほどの話に戻ると、批評や感想をネットで検索したら、「エリという少女は少女ではない!」というなんとも衝撃的な記事にいくつも遭遇したのです。というかネタバレ感想のほとんどすべてにもれなくそういう記述がありました。

勘のいい方なら、はは~ん、これはいわゆる原題と邦題の問題だな、と察しをつけるかもしれません。確かにそういう部分もなきにしもあらずですが、もっと根源的な問題は、映画には一箇所ボカシが入っていて、そこには本来エリの下腹部に去勢した(された)あとが見られる、というものでした。

当該記事がもし事実なら、そしてそれがただ単に局部を見せないとする通り一遍の自主規制に倣ったものだったとするならば、それは監督の意図したこととはべつに観客を完全にミスリードしかねない、非常に由々しき問題だと思いました。

途中、「私が女の子じゃなくても好き?」というエリの台詞があります。それに対してオスカーは、「うん。でもどうしてそんなこと訊くの?」というふうに答えます。僕らはふつう、エリの、自分がバンパイアでも好きだといってくれる? という切ない気持ちがそういわせるのだと想像しますよね。もちろんそういう意味もあるでしょうが、さらに、エリの正体は女の子ですらなかったという、二重の意味が画面のボカシによって完全に欠落してしまっていたのです。

ちなみに原作では、「昔はあったんだけど地下鉄に忘れたの」なんていう冗談をエリがオスカーにいって、オスカーに「真面目に聞いてるんだよ」なんて怒られる場面まで周到に用意されているのにですよ。と、ここまでいきおいで書いてきましたが、これらのことは、映画のオリジナル版を見るか原作を読まないかぎり絶対わかりっこないことです。

そもそもエリの正体がヴァンパイアである、という設定についてはどうでしょう? あらかじめそういう事実を知って見るより、何も知らずに見たほうが確かに驚きはあるかもしれません。という程度にはネタバレなのでしょうが、まあ公式サイトで紹介されている内容までならOK、というのが僕の大まかなスタンスです。

では、この映画のラストシーンについてはどうか。エリに恋した少年オスカーは、エリと一緒にあてどない旅に出ます。この場面は見終わって深い余韻と、なおいっそうの謎が残ります。オスカーが、やがて以前エリと同居していた中年男と同じ運命を辿るのか、いやそうではなく……、というふうに見た人によってさまざま異なった解釈を与える重要なシーンでした。ボカシのシーンもこの場面と密接にかかわってきます。

映画の感想を書く場合、読み手のためには本来そこまできちんと触れておくのが親切であるような気もします。一方で、ラストシーンについて何かを書く、その判断は大抵の場合そうとう難しいものとならざるを得ないですよね。ならば、いったい僕らはいつまでそういうシークエンスについて秘密にし続けなければならないのだろう。

『卒業』という映画のラストシーンでは、ダスティン・ホフマンさんが、よその男の花嫁となるキャサリン・ロスさんを奪いに教会にやって来て、そのままふたりはバスに乗って去ってゆきます。この、もう何度もパロディにもされた超有名なラストシーンについて語ることは、『卒業』という映画のネタバレになるのだろうか。どうでしょう?

いやあれはさすがにもういいだろうという人は、どこまでが「もう」よくてどこからが「まだ」ダメなのか。古典なら許されるという場合、その線引きはいったい那辺にあるのか。ある人の、これくらいは喋ってもいいだろうと思う基準が、べつの人にとっては、それいっちゃあ台無し、となる。物語の大筋と関係ないネタバレならいいでしょ、というケースもありうる(かもね?)。

あと、かつて流行った「この映画には大どんでん返しがありますので、最後まで決して席を立たないでください」的な煽り広告もなんだかなあと僕は思います。どんでん返しがあるというのはつまり、映画の終盤近くになって、まさにいま大団円を迎えようとしている状況はまもなく裏切られる、と変に身構えてしまいますからね。具体的にどんなどんでん返しなのかをいわずとも、十分ネタバレの片棒担ぎみたいなものだと僕はいつも憤慨しているのです。

まあでも、個人によって、感動のツボや面白さのツボが違うように、一概にどこからがネタバレでそうじゃないかの判断はおいそれとはつけられないですよね。感想を誰に向かって書いているか、ということとも深くかかわってくるわけだし。例えば卑近な例でいうと、うちのカミさんのように、そんなの全然気にしない、という人ばかりが対象だと感想を書く立場としてはすごく楽なんですが。

あ、とはいえ『ミスト』のラストシーンについて何かを書くという行為は、それだけで完全にアウトでしょうけど。←ということを書くのも本来ダメなのでしょうが。スミマセン。結局、「映画のネタバレはどこまで許されるのか?」問題の結論は、最初からわかっていたこととはいえ持ち越しとさせてください。重ね重ね、スミマセーヌ川で船下り。

なお、今回のエントリーを踏まえたうえで、いまものすごく暇で時間を持て余しているという方は、『ぼくのエリ 200歳の少女』を僕が劇場公開時に見たときの感想を、以下に(以前のブログより)再掲しておきますので是非読んでみてください。少々長くなりますので、いま時間がないという方は、あとででもいいので気が向いたときに読んでくれるとうれしいです。当時の僕のもやもや具合がよくわかって面白いと思います。

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 映画『ぼくのエリ 200歳の少女』の感想

暑いさなか、久しぶりに渋谷の町をうろついた。宮下公園前のヒューマントラストシネマで『ぼくのエリ 200歳の少女』を見た。12歳の少年オスカーが出会った少女エリは、実はヴァンパイアだった、という映画。これがすごくよかった。まだその興奮を抑えられずにいる。きっと今夜も寝苦しくなりそうだが、それは暑さのせいばかりではないのだ。まして残酷なスプラッター描写に、ひっ、とおののいた記憶のせいばかりとはいえない。

都内での上映は現在渋谷の1館のみ。ミニシアターで60人も入れば満席になった。スウェーデン映画。イングマル・ベルイマン監督やABBAのスウェーデン。映画のなかにテレビが出てくることはないが、ラジオから聴こえるニュースで「ブレジネフ書記長が……」と言ってることから、その年代の話なのだろうと想像する。ルービックキューブもあるいは時代のアイテムかなあ。

全編に渡り、スウェーデンの雪に閉ざされた冬の厳しい寒さと閉塞感が強調される。エリ(ヴァンパイア)の口元から滴り落ちる人間の鮮血と、一面の雪の白さの対比が見事に際立った。 いわゆるホラーという括りのジャンル映画ではあるが、型どおりにはゆかない。純粋な初恋映画でもあるが、単なるボーイ・ミーツ・ガールの映画かと言うとそうとばかりも言えない。いや、それすらもどこかあやしい。

いったいこの映画をどういうふうに語ればいいだろう。オスカー少年の両親は離婚し、彼は母親と暮らしている。学校ではいじめられっこで友達がいない。夜になれば孤独と復讐心にナイフを突き立てる毎日だった。そんな彼の家の隣の部屋にエリが父親らしき中年の男と越してきた。

オスカーに年齢を問われたエリは、「だいたい12歳。もうずっと12歳」と答える。誕生日がいつなのかわからない、誕生日など祝ってもらったことがない、という。やがてふたりは友達になってゆくのだが。先に書いたように、エリは、ヴァンパイアだったということからさまざまな問題が浮上する。

本当の意味でオスカーがエリを受け入れることができるのか、というのがこの映画の最大の見所なのだろう。なにしろ普通の友だちではないのだ。人間の血を吸わなければ生きてゆけない友だちなのだ。

エリは,、ヴァンパイア世界のルールにのっとって、相手から招かれなければその家に入ることが出来ない。だから「入ってもいい?」と尋ねる。「入ってもいいよ」と言われればその家に入り、(拡大解釈すれば)つまりその人そのもののなかにも入り込めるというルールだ。そこは忠実にルールに従う。

だからあとは受け入れる側の問題なのだ。そんな異形の友だちを12歳の少年が本当に受け入れられるのか。初恋という概念に囚われず、自分以外の他者をどこまで受け入れるのか、あるいは受け入れられるのか、ということが問われているのだと思った。

つまりこのくらいの男の子にとって同性の友だちも、異性の友だちも、大人も親も学校の先生もましてヴァンパイアも等しく【他者】なのだから。詳しくはわからないが、それはこの時代のスウェーデンという国が抱えていた問題でもあったのかもしれない。

この映画には不思議なことがたくさんあって、まず大人たちの存在が極めて希薄である。みんなどんな人なのかよくわからない。それは本来映画の欠点なのかもしれないが、この場合はむしろミステリーを醸し出すのにいい具合に作用していた。

オスカーは別れて暮らす父親に時々会いに行くのが楽しみなようだった。ある夜、その父親がどうもホモセクシャルではないかと匂わせるような場面に遭遇し(そう言ってるわけではないが、少なくとも父親のところに男の客が訪ねて来た途端、オスカーの存在がないがしろにされはじめた)、オスカーは結局そこでも疎外感を抱いてしまう。

少女エリが何度もしつこく「女の子じゃなくてもいいの?」と訊くのも思えば不思議だった。人間じゃなくてもいいの? ならわかるが、まさかそんなストレートなことは訊かない。つきあってくれる? と言うオスカーに何度も「女の子じゃなくてもいいの?」と訊く。あっ、えっ? ひょっとして……(さっきの父親の描写もあったし)と想像することはできるが、それを証明する根拠はない。

エリと暮らしていた中年男とエリの言い争いの場面も変だった。そのときはエリの姿は画面には映らないのだが、あきらかに普通の親子の会話じゃなった。その後の展開を見るとその謎は半分くらい解ける。なんとも悲痛な物語がそこには用意されていた。

ヴァンパイアが近づくと猫たちが異常にわめきだす場面とか、一瞬でアパートや病院の建物を駆け上がるエリとか、そのエリはバスルームのなかで眠る、などヴァンパイア映画の基本を押さえたユーモラスなシーンもぬかりなかった。湖に死体を沈める赤い棒、偶然それと同じ棒でオスカーがいじめっ子を殴る、などの小道具にも注意は怠らない。

というような細部はいくらでも書けるが、少しでもまとまった感想を書こうとすると全部ネタバレになってしまうから困るなあ。これでもぼやかしぼやかし書いたつもりなんですよ。静謐なホラーと純愛ということで言えば、これほど純度が高い初恋映画は見当たらないと思うくらい素晴らしかった。『ミツバチのささやき』という映画に出会った30年前の深い感動をちょっと思い出して厳粛な気分になった。

とまあ、いろいろと憶測で書いたので、その解釈について真偽のほどは疑わしい部分もあると思いますが、映画の出来自体には僕はすこぶる満足でしたね。ほんとうによかった。傑作だと思いました。