ヒロシコ

 されど低糖質な日日

好きな文章を書く人と面白いとかつまらないという話

好きな文章を書く人

作家の書いた小説やエッセイ、インターネット上のブログなどを読んでいて、ときどきふと思うのは、別に内容が面白いから読んでるんじゃないんだよなあということだ。

極論をいってしまうと、内容なんかどうでもいい。むろん、小説ならばストーリーやキャラクターに魅力があるとか、エッセイやブログならば取り上げた題材に興味があったり、目のつけどころがすごいとか、切り口が面白いみたいなことはあるけれど、だけど、煎じ詰めれば「その人」が書いたものであることが僕にとってかなり重要な要素なんだなあと思うことの方が多い。

その「その人」こそが、僕が好きな人だ。といっても恋愛感情や人間的に好きだとかそういうことではなく、好きな文体や文章のリズムで、なにより読んでいて自然に感じられ、心地よい文章を書く人に強くこころ惹かれる。そして当たり前のことだが、僕にとっての「その人」が万人にとっての「その人」であるという必然もないだろう。

では具体的にどういうのか、明確に言葉でいいあらわせたらわかりやすいのだが、あいにく僕はそういう言葉を持たない。好きな異性のタイプをいうのに芸能人の名前を次々とあげていったら、案外どこにも共通するタイプがなかったというのと同じように、たとえば僕がこれからあげる好きな作家の名前からみても、なんとなくバラバラという印象を拭えないのが残念ですね。

もう亡くなってしまったが、その筆頭が庄野潤三で、僕は庄野潤三という人の書いたものを読むのがとにかく理屈抜きで好きなのだ。本屋さんで買えないものは、図書館で借りたり古本屋さんで見つけてせっせと買い集めたりしながら、それこそ漁るように読んできた。いまでも定期的に本棚から手当たり次第に引っ張り出しては、その日の気分次第で適当な箇所をつまみ読みするほどだ。

ご存知の方もいるかもしれないが、庄野潤三の書くものはほとんど小説というより日記ふうのもので、内容も毎回同じようなことがくり返し書いてある。ふつうなら「それもう知ってるから」となりそうなものでも、なぜか僕はそうはならず、あたかも古典落語を聴くように、むしろ知っていることだからこそ安心してますます愛着がでてくる稀有な作家なのだ。

うちの子たちは、庄野潤三のなにがそんなに面白いのかさっぱりわからないと笑うが、僕には、もう内容云々より庄野さんが書いたものは無条件で「スキ」なのです。面白いとかそんなのどうでもいい次元まできている。

あと村上春樹さんもそうだし、佐伯一麦さんや南木圭士さんといった作家もそう。海外ではポール・オ-スターさんやジョン・アーヴィングさんなど。ね、あまり統一感がなくて可笑しいでしょ。内容だけで選ぶなら他にももっとたくさん好きな作品はあるが、その人の書いたものがとにかく読みたいという作家は、実はそうそう多くないのだ。

まがりなりにもこうしてインターネットでブログを書いている端くれとしては、僕も誰かにそういうふうにいってもらえるような文章が書けたらいいなあ、と思いますね。

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面白いとかつまらないという話

さきほどはつい勢い余って文章の内容なんてどうでもいいとは書いてみたものの、実際には読んで面白いものと自分にとってはそれほどでもないものとか当然のごとくある。

僕は学生のころから映画や本の感想を、手帳にメモ程度に書き残すことを習慣としていたが、それがブログに変わったいまでも、変わらず心がけていることがあって、原則としていいところだけを見つけて書くということだ。悪いところが目についてもそこには目をつぶる。どうしてもいいところが見つからないときは、いっそなにも書かない。スルーする。だいたいどんなものでも、いいところがひとつもないなんてことはめったにない。

かつて、テレビの『日曜洋画劇場』の解説をしていた映画評論家の淀川長治さんも、たしかおなじようなことをいっていた記憶がある。どんな映画にもほめるべきところがある、と。音楽の使い方が素晴らしいとか、美術の趣味がいいとか、あの女優のあの場面の足の組み方がよかったとか、探せばいくらでも見つかるのだと。

こっちはどなたがおっしゃったことか失念したが、だから逆にいうと淀川さんにほめられなかった部分にこそ、重大な欠点があるのじゃないかと、監督および製作者はいつも肝を冷やしたそうだ。そこまでいくとスルーしたり作者が意図したところじゃない部分をほめることは、すでに立派な批評といえる。

もっとも淀川さんについては、べつの対談書などで案外辛辣な評価を口にしていることもあったのだが、おおむねこのようなスタンスに僕は賛成です。映画や本の感想にかぎらず、あるいは誰かの書いたブログを読んだ場合でもこれは同じ。自分の感想なんだから、好きなように思ったままの批評や感想コメントを書いてなにが悪い、だれに遠慮がいるのか、という意見もあるでしょうね。ちっとも悪くないです。遠慮もいらない。だけど僕はなるべくそうしてこなかったし、これからもたぶんしない(と思う)。

「軽口くらいいわせろよ」という声がどこからか聞こえてきそうだ。もちろん。でもせっかくがんばって書いたであろうブログが、「つまらない」とか「面白くない」とか「わかってない」「興味なし」などと安易な言葉で一刀両断に切り捨てられるのを目にすると、小気味いいというより、むしろ僕は悲しくなってしまうのだ。わざわざ取り上げて、唾を吐きかけるように批判する意味がそこにあるのかと。せめてもう少し言葉を尽くせよ、と思ってしまう。

具体的にどこがどうだからつまらないのか。どうすれば面白くなる(と思う)のか。せめてそういうていねいな批判を書こうと思えば、たいていのことは途中で面倒くさくなり、案外「もうどうでもいいや」と僕ならなる。さして興味も関心もないテーマにまでわざわざ言及して、「興味なし」ということの意味はいったいなんだと。そんなことしていったいだれがよろこぶの? そこから僕あなたはなにを得るの?

ということをね、実はいつもフンフン鼻息荒く書きかけては、「あっ」とキーボードからいったん手を離す。それからやおら書きかけ部分を削除する。そもそも僕は批評ということと、批判ということと、感想ということと悪口ということをごっちゃに考えているきらいはないか。そこの部分を明確に整理できていないのに、あれこれいい立てようとするから早々に行き詰まってしまうのではないかしら、と悩んでしまう。

まあでも再び気を取り直し、いま頭のなかで考えている範囲でなんとか言葉にできそうなところまでを書いたのがこれです。またこのことについては、あらためて書くかもしれないし、もう書かないかもしれませんが、この先も誰かのブログを読みつづけるかぎり、僕がどこかで何かしらのブログを書きつづけるかぎりは、避けてとおれない問題なんだなあと思っています。  

夕べの雲 (講談社文芸文庫)

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