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されど低糖質な日日

~Ⅱ型糖尿病患者である僕のありふれた毎日~

糖尿病網膜症から本が読める目を守りたい

考え

カフェアメリカ―ノというのがあやしい

池袋のいまの三省堂がある場所にかつてまだリブロがあったころの話だから、そんな遠い昔のことというわけではない。リブロは(三省堂も)建物の構造上フロアが何ヵ所か分散されていた。その連絡通路の一画にあったオープンカフェに、その日カミさんと僕は運よく席を確保することができた。もとよりお腹はいっぱいだったので、なにか温かい飲み物をと、ふたりしてのんびりメニューを眺めた。

そうしたところ、ブレンドとかアメリカンとかいう、ふだん僕がこういう店でよく注文するコーヒーの種類がメニュー表に載っていないことに気づいた。さて困ったなあと思いつつ、だけど注意深く文字をタテにもヨコにも追っていくと、ずうっと下の方にカフェアメリカーノというのがあるのを見つけた。

「おそらくこれがいわゆるアメリカンかな?」と見当をつけ、それでもちょっと不安だったので、いちおう店の人を呼んで訊いてみたら、「当店は基本がエスプレッソになっておりまして、それに熱いお湯を注いで薄めたものがカフェアメリカーノでございます」と、ていねいな口調で教えてくれた。

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あとから調べたら、スターバックスにもおなじメニューがあるんだね。知らなかったけど。お湯で薄めただけあって、まさにアメリカンなんだけど、アメリカ―ノというのはイタリアーノの偽物みたいでちょっと面白い。そもそもアメリカにはアメリカンなんてないんだろうなあ。そういえばドトールで、夏の暑い盛り、僕はアイスコーヒ―を注文して「悪いんだけど、うんと薄く作ってくれる?」と頼んだことがあった。

店のおにいさんはすっかり戸惑ってしまい、「お客様、当店ではアイスコーヒーをとくべつに薄くお作りすることはできないので、あのお、氷をふだんより多めに入れるということでよろしいでしょうか」と尋ねてきた。僕はそれでとりあえず納得して「あ、それでいいですよ」と返事したのだが、いっしょにいたうちの下の子がひどく迷惑そうな顔をして、あとから席に着くなり、「あまりさ、メンドクサイことばかりいってるとキラワレル年寄りになるよ」と怒られたことがある。

 

諸星大二郎さんという引きこもりの漫画家

で、話を元に戻すと、といってもコーヒーとは全然関係ない話になるのだが、そのリブロという本屋さんの連絡通路にあったオープンカフェのすぐ横のスペースで、つまりそこも連絡通路なんだけど、そのときちょうど漫画家の諸星大二郎さんという方がサイン会をやっておられた。正確にいうと、サイン会直前だった。

実は僕(とカミさん)は漫画をほとんど読まない大人なので、ふたりとも諸星大二郎さんがどんな人なのかまるで存じあげなくて、少し迷った末に、これも近くに居合わせたリブロのスタッフに、「どういう方ですか?」と臆面もなくたずねたのだ。すると、「著名な漫画家の方で、めったに外に出られない方なんですよ」と、そのスタッフはやはり親切に教えてくれた。

めったに外に出ないというので、きったないかっこうして何日も風呂にも入らないような人を一瞬僕は想像してしまったが、あるいは、そうとうな面倒くさがりやなのか恥ずかしがりやなのか人見知りなのか気むずかしがりやなのか、ただ引きこもって仕事ばかりしている堅物なのか。どうせだったらそれも訊きたかったが、さすがにあまり失礼だろうと遠慮した。しばらくして現れた諸星大二郎さんは、まあふつうに紳士的な大人の男の人だったです。

家に帰って、子どもたちに諸星大二郎という漫画家の人を見かけたぞといったら、下の子が「うそー、諸星大二郎見たの? スゲー」とこっちがびっくりするくらいのテンションで驚かれた。公の場にめったに顔を出さないので有名なんだということを、そのときあらためて教えてもらった。

まあアレだね、どんなに有名な人でも偉い人でも、だれかにとっての憧れのスターであっても、その人やその分野に関心がなかったり疎い人にとっては、名前も顔もまったく知らないということがやっぱりあるんだよなあという、ごくごく当たり前のことを思いました。ただしなにごとも例外というか規格外の話はあって、また少し横道にそれるけれど、田舎の僕の実家に帰省したとき、居間に乙武洋匡さんの『五体不満足』が無造作に放りだしてあって「おっ」と思ったことがある。

当時父親は死んでもういなかったので、誰かが置いていったのかと母にたずねると、自分が本屋さんで買ったのだと母親はいった。ああベストセラーというのはこういうことなのか、と得心がいった。しかも『五体不満足』はただたんに一冊の本がベストセラーになったにとどまらず、社会現象にまでなったという実例を目の当たりにする出来事だった。

 

本を読む大人を見たことがなかった

なにしろ、嘘だと思うかもしれないが、これまで僕は両親が読書をしている姿というのをただの一度も見たことがなく、本屋さんで自分の本を買う父親を見たことがなければ、家庭の医学とか冠婚葬祭のマナー集とかは別にして、うちには子ども用以外の読み物としての本がなかったのだ。

唯一の例外は当時刊行がはじまったばかりの新潮社の『日本文学全集』で、これは毎月決まって商店街の吉田書店という小さな本屋のおじいさんがオートバイで配達してくれていた。『日本文学全集』は弟が持ち出しっぱなしの何巻かを除けば今でも実家のガラス戸つきの本棚にズラリと並んで、ボロ家とは不釣合いな異彩を放っている。母親はあのころ「老後の楽しみ」などと吹聴していたが、老後の今になっても全集を取り出して読んでいるということは誓ってない、はずだ。

思うに老後の楽しみというのは方便で、全集を買い揃えることになったのもきっとのっぴきならない大人の事情があったのだろう。そういえばうちには他にも小学館の『少年少女世界名作文学全集』や『ジャポニカ百科事典』なども揃っていた。吉田書店でだけはいつでもツケで本が買えたので、そのあたりにあるいは理由らしきものがあったのかもしれない。

両親のみならず親戚の大人たちや近所のおじさんおばさんたちが本を読んでいる姿というのも実は見た記憶がないのだ。そういうわけだから、僕は読書をする大人とは無縁な子ども時代を過ごしたことになる。もちろん上の学校へ進めばなかには学校で本を読んでいる先生もいたわけで、それでもまだ、先生になるようなごく一部の大人だけが本を読んで、大半の大人たちは本とは離れた生活を送るものだと思っていた。

したがって僕自身が、学校を出てからも本を読む大人でいつづけるなんてことは想像できなかったし、いつかは本を読まない大人になるのだろうと漠然と思っていたのだ。なので田舎者丸出しな話で恐縮ですが、東京へ出てきてどこへ行くにも電車を利用するようになり、まだスマホなんてなかった時代だから、ガムを噛みながら退屈そうに新聞を読んでいるサラリーマンたちに混じって、熱心に文庫本を読んでいる大人の人が多いのにすっかり驚いてしまった。

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糖尿病網膜症から本が読める目を守りたい

結婚して子どもが生まれ、その子が成人したらいっしょに酒を酌み交わしたいという人がいる。僕はお酒が飲めないのでかわりにいっしょに同じ映画を見たり本の貸し借りして感想を言い合ったりすることができたらいいなあとずっと夢見ていた。そしてその夢はすでに少しは成就したのですが、大学生になった下の子は学校の勉強とスマホのゲームに忙しくあまり本を読まなくなり、大学院へ進んだ上の子はなにやら小難しそうな本ばかりを手当たり次第という感じで読み漁っている。もう完全に僕のことなど置いてきぼりで。

ということでハッと思ったのは、まだ子どもだったころの僕は本当は親の読書なんかにそれほど関心がなく、というより端から本など読まない人だと勝手に思い込んでいたふしがなかっただろうか、ということ。「あいつ近ごろ難しそうな外国の本やSFとかいう科学の本ばかり読みやがって」と父親は内心やきもきしていたかもね。ということも、う~ん、やっぱりちょっと考えづらいか。

僕のなかの父親像というは、実際本なんか1ページも読まないような人だったもの。昼間働いて夜はパチンコ行ってたまにテレビで野球やボクシング中継見たり映画見たり、あとは疲れて寝て。なんかその方が父親らしくていい。でもそんな父親の子として生まれた僕は、幸か不幸か本を読む大人になったのだ。

糖尿病網膜症を患ったとき、まっさきに絶望したのは、視力を失いかけて運転免許証を失効したことよりも、これで大好きな本がこれまでどおりには読めなくなるかもしれないと思ったことだった。さいわい、レーザー治療と糖質制限による糖尿病のコントロールが上手くいったおかげで視力を失わずに済んだ。そのあたりの顛末についてはよかったら過去ログも読んでみてください。 

視力は完全には回復したわけではないし、この先いつまた網膜症が再発しないともかぎらない状況にはあるが、いまでも人並みには読書の習慣がつづけられている。そしてこれだけは死ぬまで守り続けられたらいいなあと思う。おもに僕が読むのは小説です。でもこれからは小説にかぎらず、諸星大二郎さんも知らない僕ですが、おすすめの漫画などもあれば、そういうのも是非読んでみたいのでどうか教えてください。

 

諸星大二郎スペシャルセレクション 太公望伝

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マッドメン

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