ヒロシコ

 されど低糖質な日日

カズオ・イシグロ『日の名残り』~人生の黄昏について考える

映画を見るため渋谷へ出たついでに、東急ハンズでかねてから欲しかったパン切りナイフを買う。文字どおりナイフを懐に忍ばせながら映画を見て、そのあとコーヒーショップに立ち寄り、映画を見たあと特有の少し昂った気持ちのほとぼりを冷ます。

そこのコーヒーショップは、出入り口のドアがボタン式(タッチ式)自動ドアで、タッチする突起部分を押して店内へ入ると、あとはほっといても閉まるのは自動的に閉まる。自動というか半自動みたいな感じ。ちょっとしたセンサーや重みでドアがしょっちゅう開閉するのとちがって、わずらわしさが軽減されるし、室温なども比較的一定に保ちやすいのかもしれない。

僕がたまたま出入り口付近の席にすわっていたら、お年寄りの夫婦がドアボタンにタッチして店のなかへ入ってきた。おじいさんの方はそのまま空いている席を探しはじめたのだが、おばあさんは、まだ閉まらないドアの内側のボタン部分をしきりになんども押してはドアを閉めようとしていた。でもそのボタンを押すとドアは逆に開いてしまうわけで、それをつづけている限り永久にドアは閉まらない。そしてよりによって、ボタンの突起部分にはごていねいに「押してください」と書いてある。つまり出るとき用に。

おばあさんはすっかり戸惑ってしまい、首をかしげるばかりだった。それでお節介にも僕が「それほっとけば自動で閉まりますよ」と声をかけると、その僕の声に気づいたおじいさんがすばやく戻ってきて、僕に「どうも」と軽く頭を下げると、今度はおばあさんに「いいから」と小声でささやき店の奥の方へ引っ張っていった。

しばらくたって、さきほどの老夫婦が店を出ていく。先におじいさんがボタンを押して自動ドアを開け外へ出て、あとからおばあさんが出る。おばあさんはやっぱり入るときとおなじように開いたままのドアが気になるのか、ボタン部分をなんどか押してドアを閉めようとするのだった。そうしてまたもやおじいさんに腕をとられ雑踏に紛れていった。おばあさんはきっとそういうふうに、そういうふうにとは、ドアを開けたらきちんと閉めるようにと、躾られて育った人なんだろうなあと思った。あるいは理屈ではわかっていても、つい条件反射で体が動いてしまうのだろう。

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世の中は見る見るうちに便利になって、いまでは自動ドアでないドアの方が珍しくなったくらいだ。むしろドアの前に立って、自動で開かないと「あれ? 故障?」と思ったり、そのときはじめて取っ手がついていることに気づくなんてこともある。ずいぶん(というかあえて)古風にしつらえてあるんだなあと妙に得心したりする。だけど考えてみたら、いつからこういうふうになったのだろう?

町じゅうのドアというドアが自動ドアになり、階段がエスカレーターになって、駅の改札は自動改札になって、大きな病院の支払いも自動支払機になり、チケット売り場は自動券売機に代わり、画面はタッチパネルになり、ネット予約が当たり前になってきている。そういう便利さを僕は否定するつもりはないけれど、だんだんとね、目ざましく進歩して変更されていくそういうオペレーションシステムに、やがてついていけない年寄りになる日が、遅かれ早かれ僕にもやってくるのではないかと内心戦々恐々としているのだ。

若い人に、うしろで「チッ」と舌打ちされる日がこないとも限らないですからね。いや、こんなこといまごろいってる方が時代錯誤でどうかしていると笑われるだろうか。自動ドアやエスカレーターが便利だとかなんとか。たしかにそれらは地球上に恐竜がいた時代から既にそこにあったように、いまでは町じゅうの至る所に存在しているが、この自動ドアやエスカレーターは明日には、べつの新しい機能を備えた新型の自動ドアやエスカレーターに取って代わられているとは考えられないだろうか。

オペレーションは日ごとどんどん便利に進化していく。いまはまだ平気でついていけても、いつかおぼつかなくなることがあるかもしれない。そういう意味で、便利さって諸刃の剣にもなるからね。ただでさえ外へ出るのが億劫な性分なのに、それがますます加速して、とうとう「もういいや」とあきらめちゃう日のことを、僕はいまから本気で心配しているのです。

では、そうして家で何をしているかといえば、古書店で買いもとめた大好きな夏目漱石や井伏鱒二の全集を、もうなんども読み返して内容もすっかり覚えているのに、また函からひっぱり出して読むのだ。まあそれも楽しい。短編だったり、長編でもとくに好きな部分だけつまんで読んだり、そこから再び書き出しに戻ってみたり。

おなじように、大好きなトリュフォーやワイルダーの映画のDVDを、ひょいと手にとっては気ままに再生する。そのまま最後まで見ることもあれば、べつのチャプターを選ぶこともある。大好きなサイモン&ガーファンクルやサザンのCDをくりかえし聴く。雨が降り、地表や地中を流れ、海に注がれ、蒸発して、やがて再び雨になるようにくりかえしくりかえし聴く。

そんな自分を客観的に見たら、まるで人生の黄昏みたいだと思うかもしれない。もういまさら新しいことには興味がないんだよ、なんて考えてるわけではないけれど、なんとなくそういうものに手を出すのをためらうような。僕の一生を一日にたとえるならば、あきらかに夕暮れにさしかかったころだろうし、一年にたとえると、季節はそろそろ秋の終わりがやってくるころなのかもしれない。いつまでも春や夏のときのように浮かれてはいられない。

そのことを素直に受け入れ、季節にふさわしい生き方をしてゆかなければならないと思うこともある。けれど、そうやって思う一方で、「このまま大人しく老後を迎えるつもりか?」という二十歳の自分もいまだ隠しがたくいるのも事実だ。二十歳の自分は、さてこれからショパンの『木枯らしのエチュード』に挑戦してやろうかしら、などと大胆なことを考えている若者だ。いやいや、実際のぼくはピアノなんてまったく弾けないんですけどね。

『日の名残り』という小説のなかでカズオ・イシグロさんは、「夕方が一日のうちでいちばん美しい時間である」といっています。だからせっかくの美しい時間をせいぜい楽しもうよと。小説のあらすじはざっとこんな具合です。イギリスの貴族に長年仕えてきた執事スティーブンスが、主人が死んだあと新しく屋敷を買い取ったアメリカ人になかなかなじめないでいる。そんなおり、屋敷の深刻な人手不足を解消するため、以前いっしょに働いていたミス・ケントンに戻ってきてもらおうと、主人の許可を得て彼女に会いに行く。

旅の果て無事再会を果たしたスティーブンスに、ミス・ケントンはかつての淡い恋心も打ち明けながら、でも「うしろをふりかえってばかりはいられないのよ」という。時計をあともどりはさせられないのだからと。ミス・ケントンがしあわせに暮らしていることがわかって、スティーブンスは自分も少し前向きに生きていこうと考えるようになった。いつまでも昔の主人を懐かしんだり、若いころの思い出に浸ってばかりいないでね。

先日ある老人からいわれた「夕方が一日のうちでいちばん美しい時間なのだ」という言葉をスティーブンスがかみしめるのはそんなときだった。一日を人生にたとえるならば、まさにいまがいちばん素晴らしいときかもしれない。さっそく屋敷に帰ったらジョークの練習にでも励んで、アメリカ人の主人をびっくりさせてやろう、と思うところでこの小説はおわります。

カズオ・イシグロさんの小説でいちばん面白かったのは『わたしを離さないで』だったが、いちばん好きなものを聞かれたら、ぼくはこの『日の名残り』を挙げるかもしれないですね。いま僕はおなじカズオ・イシグロさんの『忘れられた巨人』を読んでいる最中で、テレビではちょうど今夜から、綾瀬はるかさん主演の『わたしを離さないで』が世界ではじめてドラマ化された、と盛んに宣伝をくり返しているのを見聞きして、ぼんやりとそんなふうなことを考えた。  

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忘れられた巨人

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