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されど低糖質な日日

~Ⅱ型糖尿病患者である僕のありふれた毎日~

コミュニケーションの難しさについて

考え

インターネットをのぞいていると、ときどき自分が思いもよらなかった他人の意見や感情に出会って驚かされることがある。たとえば、飲食店で食べたり飲んだりして店を出るとき、「ごちそうさま」ということに抵抗がある、という人の意見がある。「ふ~ん、世の中にはそういう人もいるんだなあ」くらいの軽い気持ちでリンク先を読んでいると、おなじような意見の人が結構な割合でいることを知った。

それも、ほんとうは「ごちそうさま」といいたいんだけど、ほかのお客さんの手前、恥ずかしくってついいいそびれてしまうとか、どうもそういうのが苦手だというのならまだわかる。なかには、自分の家以外の場所で「ごちそうさま」ということや、いってる人を見たりその声を聞いたりするのも抵抗があるとか、ひどいのになると気持ち悪い、不快だと書いてるのまであった。

そういう人のおもな理由が、「ごちそうさま」とわざわざいう行為が偽善的に思えるからなんだそうですね。いわれてみると、料理がおいしかったりサービスが素晴らしかったから心の底から「ごちそうさま」といってるかといえば、そうかなあと首をかしげてしまうところがないわけではない。ただし、客は食べたり飲んだりした対価として料金を支払うのだから、いわば対等な関係で(そこまでは理解できる)、だから店の主人や料理人に対して卑屈になる必要がない、という理屈になると、僕にはちょっと理解できない。「ごちそうさま」ということがどうして卑屈になることなのか。

最近ではめったに食べもの屋さんへは行かないが、カフェやスタンドでコーヒー一杯を飲んで帰るだけでも、僕は帰りがけにお店の人に「ごちそうさま」と声をかける。でもそれは、けっしていい人ぶったり偽善的だったり、まして卑屈になってるんじゃなくて、ごく自然と口をついて出てしまうのだ。といっても、親のしつけがいいとかね、育ちがいいとかそういうことを自慢したいわけじゃないよ。

むしろ僕は、がさつで人一倍恥ずかしがり屋だから、うんと若いころ、そういうコンプレックスを克服しようと思って自分から積極的に「ごちそうさま」っていおう、と決めて努力した。バスやタクシーを利用して降りるときは運転手さんに「ありがとうございました」という。料金を払った客だとかなんとかは関係ない。まして運転手さんと僕、お店の人と僕、ほかのだれも見てなくても関係ない。もう二度と会わない相手かもしれない。つまり偽善でもいい人ぶってるわけでもかっこつけるのでもなんでもないんだよ。

もしそう思われたとしてもべつに平気だけどね。まあ僕が「ごちそうさま」というのを不快に思う人がいたとしても、それは僕にはどうしようもないことなので、ただ勘弁してくれというしかないですね。居合わせたあなたの運が悪かったんだよ。

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ちょっと話が逸れるが、以前、錦織圭さんが全米オープンテニスの決勝戦を戦ったセンターコートの名称が、アーサー・アッシュ・スタジアムだというのを聞いたとき、「うわーっ」と懐かしさがこみあげてきたことがあった。といっても、もちろん僕はその場所に立ったこともなければ、スタジアムを訪れたこともない。

学生のころ、テニスをやっていた僕は、級友たちが野球雑誌を買って回し読みしているのを尻目に、ひっそりテニス雑誌を買い、そこに大きく一面を飾った、ジェントルマンでやや知的な感じのするアーサー・アッシュさんのプレー中の写真を切り抜いては、いまでいう硬質のA4クリアファイルみたいなのに挟みこんで下敷きにしていた。いわば僕にとっては憧れのプロテニスプレイヤー。

アフリカ系アメリカ人で、全米オープンテニス初代チャンピオンでもある彼の功績を称えて、いまのスタジアムはつくられたものらしい。と、いうような話をね、なにかの拍子に上の子にしていると、「え、なにその写真入りの下敷きって?」と、そこに反応するのかよ、という部分で疑問を差し挟まれる。「当時はそういう下敷きが流行ったんだよ」と、それ以上説明のしようがないことに僕は少し苛立った。

でもまあ、二十歳を若干超えたばかりの上の子に、アーサー・アッシュだの写真入り下敷きだのといっても、通じないのも無理はない。松岡修造さんが現役のプロテニスプレイヤーだったのも知らないんだもの。ただ「あ、そういう人たちとも共通の話題で僕は話をしてるんだよなあ」ということに、はっと気づくというか思い知らされる。

それも、うちの子どもたちと話してるぶんには、いっしょに彼らとともに僕も成長してきた歴史があるから、まだわかりやすい。自分の記憶と彼らの成長具合いが紐づけされてるから。あと、実際に顔が見えて声が聞こえる範囲で、直接会話してる場合もまだね。だけど顔の見えないSNSで、よその若い人たちと、ある意味おなじ土壌でコミュニケートしていると、彼らの書いたものを読んだり、反対に僕が書いたものを読んでもらうのに、ちゃんと正しく届いて(受けとって)いるのかなあ、と不安に思うことがやっぱりありますね。

さらに(僕からすれば)十分若いと思う人たちが、「いまの若い子にはわからないだろうが」などと断ってはじめる文章の居心地の悪さったら。そういうとき、ついさっきまで対等なつもりでコミュニケートしていた相手が、というか僕の方が、一瞬で浦島太郎にでもなった気分に陥る。そうして、ちょっぴり寂しさを感じるのだ。

だからってべつに僕は、それにこだわって、なにかを否定したり異を唱えようというわけではないよ。ただ SNS って、すごくフラットではあるけれど、同時にものすごく乱暴なコミュニケーションの場であり手段だなあと、ときどきおかしなことを再認識するのだ。

――自分が人にされてイヤなことは人にしない
という考え方がありますね。あるいは、
――あなたが人にしてもらいたいと思うことを人にしなさい
でもいい。こういうのは聞くと「なるほどなあ」と思いますよね。

人からいじめられ仲間はずれにされるのはイヤだから、人をいじめたり仲間はずれにしないとか。上司にお酒やカラオケを強要されるのはイヤだから、自分が部下を持ったらそういうことを強要しないようにしようとか。家族を亡くして寂しいときに、友人がわざわざ遠方から駆けつけてくれて慰めてくれた。だから今度同じような人がいたら、自分もできるだけその人の傍にいてあげたいとかね。なんでもいいんだけど、そういう考えはたしかに理に適ってるなあと思うのだ。

そして僕もこれまでそうやってきたつもりだし、うちの子どもたちにも言い聞かせてきた。反対に人にイヤなことされて腹が立ったときは、「それ自分が同じことされて平気なの?」と思ったり、実際口に出したこともある。ところがふと、なにかの折に、また別の考えが頭をもたげることがある。

「自分が人にされてイヤなことは人にしない」という言葉の中心にいるのは、あくまでも自分だ。つまり、どこまでいっても自己中的な考え方だよなあと。まず考えるのは自分がそれを好きか嫌いかで、相手の気持ちではない。相手の気持ちは二の次。ひとつも相手の立場に寄り添っていないじゃないかと。

『マイ・フェア・レディ』の原作者でもある、劇作家バーナード・ショーは逆説的にこんなふうにいってますね。関係ないけど、この人いうことがいちいち元サッカー日本代表監督のオシムさんみたいですが。いわく、
――人にしてもらいたいと思うことは人にしてはならない。人の好みというのは同じではないからである

もしかしたら、相手は自分と生まれも育ちも受けた教育も、現在の立場も住んでる場所も、経済的な状況も、既婚か未婚かも、子どもがいるか介護しなければならない親がいるかどうかも、もっといえば日頃からの思考も嗜好も、場合によって男女の違いだってあるかもしれない。そういうことを少しも考慮せず、相手の立場に立たず、自分の好き嫌いだけでものごとを決めてもいいのだろうか。

――ぼくはあなたではないし、あなたはぼくではない
これは誰の言葉かとうに忘れてしまった。そもそもそんな言葉があるのかどうかも怪しいけれど。これを裏返すと、いま(いろいろな意味で)流行の歌の歌詞でもある、
――私以外、私じゃないの
になりますが、それはこの際ひとまず置いといて。

でもふと、そんな考えをぐるぐる巡らせながら、ちょうど一周したあたりで、しょせん「僕とあなたは違う」「人の好みは同じではない」、だからあなたの本心など僕には想像できるはずもない、というのなら、せめて想像のとっかかりとしてまず自分のことを考えてみるというのは、あながち間違った方法ではないのではないか、とも思ったのです。

僕は人とのコミュニケーションが下手でよく失敗する。だから友だちもいない。恐怖心がいつも先にくるのだ。相手を傷つけたらどうしよう、傷つけられたらどうしようと、ビクビクしながら生きている。生きてきた。

コミュニケーションは難しい。喩えていえば善光寺のお戒壇巡りのように、一条の光も入らない漆黒の闇の中を手探りで前へ前へと進んでいくようなものかもしれない。いずれにしても、相手の気持ちという錠前をつかむのはなかなか容易なことではないのだろう。 

わかりあえないことから──コミュニケーション能力とは何か (講談社現代新書)

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嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

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伝え方が9割

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