ヒロシコ

 されど低糖質な日日

はじめてカレーライスを食べた日本人

お正月もおわり、また日常生活が戻ってきた。「おせちもいいけどカレーもね」というのはもはや死語ならぬ死コピーだろうけれど、今回は糖質制限の敵といってもいいと思うカレーライスの話を。

もう大昔の話になるが、大学受験に失敗して、一年間だけ予備校に通っていたことがある。落ち着いて勉強できるようにと、予備校の寮に入った。他になにも楽しみがない寮でのいちばんの思い出は、日曜日の夜のカレーライスだった。日曜の夜の食事は、カレーライスと決まっていた。

若干水っぽいカレーだったけどね。それでも大量に作るカレーはだいたいうまい。ところが夏を過ぎたあたりから、それがだんだん苦痛になってきた。日曜がくるたびに、「ああ、また今夜もカレーか……」と思うようになってきた。僕だけかと思ったら、同じ寮生の何人もが同じことを口にする。外出などで食事がいらない場合、前もって届けを出し、食堂の札を裏返しておくルールがあった。その裏返しの札が、日曜の夜だけ目に見えて増えきた。

一年間、決まって日曜日の夜がカレーだというプレッシャーに耐えられなくなったやつが僕以外にもいる、という事実は、僕に多少の安らぎを与えてくれた。けれどいま思い返してみるとあれは、カレーに飽きたというより、近づいてくる受験のプレッシャーから逃げ出したいという「あがき」そのものだったのだろう。

事実、どうにか大学に滑りこんだ僕は、しょっちゅう学食のカレーライスを食べていたのだから。あきらかに週に一回以上、日曜も月曜も木曜も関係なく、昼も夜も関係なく。むろんカレーがいちばん安かったということもある。でもそれ以前に、そもそも僕はカレーが大好きなのだ。

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「私はいまだかつて、嫌いな人に会ったことがない」といったのは淀川長治先生だが、僕はいまだかつて、カレーが嫌いな人に会ったことがない。ラーメンがあまり好きじゃないという人なら会ったことがあります。会ったというより、僕のカミさんがまさにその人。

そんなだから、自然とうちでもカレーライスをよく作る。とくに、テレビで見たいサッカーの試合がちょうど夜ごはんの時間に重なるような日は、早めにカレーを作っておく。うまく時間が合えば、ハーフタイムの時間を利用して手軽に食べることができる。

糖質制限食をはじめて、僕は市販のルウやジャガイモを食べられなくなったけれど、僕の分だけ糖質が少なめなタイカレーにしたり、いっそみんなの分もタイカレーにするようになった。それでもカレーはカレーだ。インドだろうとタイだろうと。

ここで突然だが、カレーがカレーたりうるためのアイデンティティとはなにか、なんて考えたことありますか?

自分のアイデンティティ(自己同一性:つまりこれこそが自分だというべきもの)とかレーゾンデートル(存在意義)もなかなかよくわからないのに、他人の、というか人ですらないカレーのアイデンティティなんて、ふつうは考えないですよね。ですが、ちょっと暇だったので考えてみた。

おそらく、牛すじとか角切り肉とか豚小間とか合挽きだとか鶏ももでもいいんだけど、そういう肉の種類や形状ではないはず。そしてもちろんニンジンやジャガイモやタマネギなどの野菜でもない。ナンやパンや白米やバターライスやサフランライスや、まして干しぶどうでもない。たぶんね。

ここまでは容易にわかる。ではルウでしょうか。ルウ。なぜルーと音引きで表記しないかというと、ルー大柴さんと紛らわしいからで、そのルウは、小麦粉をていねいにバターで炒めてつくる。ここにカレー粉や香辛料やブイヨン(コンソメスープとか野菜スープ)を加えて、一般的にはカレールウができあがる。市販の固形ルウもこれですね。

そこで悩ましいのは、ルウだけではカレーの味がしないただのソースのとろみなので、その段階ではカレーとはいえないし、かといってカレー粉だけでも、カレー味はするけれど、それをカレーというかとなると、いわゆるカレーとはべつのものにただカレー風味を加えるだけのパウダー、という気もするのだ。

でも、小麦粉を使わなくてもカレーは作れるわけだから、そう考えるとやっぱりカレー粉あってのカレーなんだろうなあ、というのが結論になります。まあ僕的には、面倒くさいからひっくるめてカレールウがカレーのアイデンティティだよ、と乱暴にいってしまっていい、と思う。なんか当り前すぎてつまらないですが。

そこに、炒めた肉や野菜をいっしょくたにしてコトコト煮て、ごはんにかけるなりパンやナンをつけてたべるなりするのが、いわゆるカレーというものだ。(ここまでなんか質問ありますか? ないようなので――)で、なんでこんな話をしているかというと、実はひょんなことから、NHKの大河ドラマ『八重の桜』にも登場した帝国大学の物理学教授・山川健次郎について調べていたのだ。 

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彼が白虎隊の生き残りだというのは知っていたけれど、のちには東京帝国大学の総長にまで出世した人だった。そして、これはたしかな資料は見つけられなかったが、その在任期間中にどうやら夏目漱石が英語講師として帝大に招かれている。漱石については、だけどここでは関係ないのでいったん置いておく。

当時、当時というのは幕末のころから、西郷隆盛や大久保利通や桂小五郎やもちろん坂本龍馬も勝海舟も、だれひとり、どのパーツを欠いても明治維新というパズルは完成しなかっただろう。会津白虎隊といえども、当然そのかけがえのないパーツのひとつだったのだろうと思う。

したがって、山川健次郎博士がいなかったら、彼がもし生き残っていなかったら、現在この国のかたちもいまとはずいぶん異なっていたにちがいないのだ。いやいやいや、歴史に " if " はない、という話がしたいわけではなくて、カレーの話に無理やり戻しますが。この山川健次郎をWikipediaで調べていたら、記事のいちばん下に、「はじめてカレーライスを食べた日本人」として紹介されることが多いと書いてある。

その話の真偽はともかく、山川がカレーをはじめてたべたのが、国費留学生としてアメリカへ向かう船のなかだという。そういう回想録も現存しているらしい。しかし、その日の食事にカレーを選んだのは、それが唯一米を使った料理だったからで、つまりカレー「ライス」だったからで、実際山川はごはんだけたべて、肝心のカレー(ルウのほう)はすべて残したということなのだ。

この記述に僕は思わず大笑いしてしまった。重ねていうけど、真偽はわからないですよ。だけど、カレーを残したカレーライスをもはやカレーライスと呼ぶかというのは、十分議論に値する問題だろうと思った。

アメリカまでの長い船旅で、おそらくパンとかイモとかマメばかりたべさせられて、博士は無性にごはんがたべたくなったのだろう。僕はね、もちろん異論もあるでしょうが、それでも博士が日本ではじめてカレーライスをたべた人、として認定してもいいように思うのだ。だって、ごはんたべたかったんだよ、博士。僕も4年以上糖質制限をつづけているから、よけい博士の気持ちがわかる。

スプーンでごはんすくうとき、ちょっとくらいカレールウがごはんについたかもしれないし。と思ったけど、ひょっとしたらカレールウはごはんとべつに、あの『アラジンと魔法のランプ』みたいな器で出てきたかもしらんね。う~ん、となるとまた悩ましいが、まさかイタコの口寄せをして博士を降ろしてもらうわけにもいかないし。

ラーメン屋さんで、「野菜たっぷりタンメン」のメンなしを注文するのはそうとう勇気がいるだろうが、僕はスープと上にのってる野菜炒めだけでも十分おいしくたべられるし、よほどヘルシーだと思うなあ。実際ラーメン二郎でメンなしを注文した人の武勇伝ならネット上に転がっている。ただし、それらをラーメンとかタンメンといえるかどうかというのはまたべつの問題だ。

微妙なのが、ひところ存在したすき家の「牛丼ライト」というメニューで、これはふつうの牛丼の下の部分がごはんではなくとうふとキャベツの千切りなんですね。はたしてこれもどんぶりと名のっていいのか。みなさん、どう思いますか?

そしてこういう逆転の発想みたいなことでいうと、モスバーガーには、パテ(具材)をレタスで包んだ「菜摘バーガー」という超ヘルシーなメニューがある(常時あるわけではないが)。いわゆるバンズと呼ばれるパンがない。いったいパンに挿まれてないものをハンバーガーと呼んでいいのかということだ。

一方、サブウェイのサンドイッチはパンの種類や野菜の量、ドレッシングの種類を選ぶことができ、自分好みのサンドイッチをカスタマイズできることで有名です。これも「パン抜き」で注文可能なのだ。値段はサンドイッチのときとおなじ。でもそれはさすがにサンドイッチじゃなくてサラダだよなあと思う。店側でも「サラダ」といってるくらいだしね。最近のファーストフード店は、糖質制限を少しは意識したのか、さまざまな顧客のニーズにこたえるため、あの手この手でがんばっている。

というあたりで、今回のエントリーは打ち止めにしてもいいのですが、最後にまたどうでもいい話を。うちの下の子から聞いた話だから、たぶん少し盛った(おおげさにした)ところもあるかと思います。そのつもりで――。

ある日の下の子の同級生のSくんのお弁当は、おにぎりとカレーだったそうだ。カレーはまえの晩の残りで、ぴったりフタがしまる案外小さめのタッパーウェアに入れ、用心のためそのタッパーがすっぽり入るもうひとまわり大きいタッパーに入れ、Sくんのお母さんは、さらに念には念の入れようで、それらをもうワンランク大きいタッパーに入れたのだった。

都合3重のタッパーに入ったカレー弁当を、お母さんはペイズリー柄のバンダナで包み、スーパーのビニール袋におにぎりといっしょに入れた。万が一にもなかのカレーが洩れるようなことがあれば大変なことになる。Sくんは、ビニール袋をいつものように、ナイキのエナメルのスポーツバックに詰めこんだ。

エナメルのバックには、教科書やノートが入っている。それでなくてもカレーの匂いがほかにうつるのを、Sくんのお母さんは心配したのだ。そういう意味もあって、用心に用心を重ねた。「いい? お弁当の袋を傾けたり、バックを放り投げたりしちゃダメよ」といってお母さんはSくんを学校へ送り出した。

あとは想像におまかせしますが、下の子がいうことには、「なにしろ大変な惨状になってたよ」ということだ。Sくんはかわいそうだが、Sくんのお母さんも、帰ってきてその話を聞いたら、さぞかしがっくり肩を落としたことだろうなあと同情する。スープジャーとかあればよかったんだけどね。

なにごとも、用心するにこしたことはないわけだが、だけど日々の生活のなかでは、キリがないのでどこかで「もうこれでよし」とあきらめるというか、納得しなければならない場面がでてくる。災害への備えとかとくに。ところが、それがなかなかやっかいでむずかしい。

一方で、ふだんのことでも、これだけやってダメだったらあとはあきらめるしかない、というところまで徹底したり、がんばったことがあるかと考えたら、僕にはちょっと思いつかないですね。それでなくても、子どものころからいつも肝心なころでやめちゃう、と僕はいわれつづけてきた。

習いごとではじめた書道も、スポーツクラブのサッカーや野球やテニスも、そこそこの成績を残せなかったわけではないのに、途中でなんとなく「もういいかなあ」くらいの軽い気持ちでやめちゃった。糖質制限は4年つづいているけれど、禁煙といっしょで、つい1本、つい1杯のごはんが、引き金にならないとも限らないと内心怯えている。だから、「もうこれでよし」なんて気持ちになることなんて、ほかの人にはあるのだろうかと、逆に聞いてみたいです。

元ニューヨークヤンキースの松井秀喜さんは、引退を決めた会見で、記者から「いまどういう言葉を自分にかけてやりたいですか?」と聞かれ、「『よくやった』という気持ちはないですね。『がんばったね』もない。『もう少しいい選手になれたかもね』ですか」と答えたのだった。

あれだけの素晴らしい実績を残して現役を退いた松井さんですらそうなのだから、僕など、ましていわんや、なのです。なーんて、すぐ自分を正当化しようとするのも僕の悪いクセだ。あれ、なんだか日曜日の夜のカレーライスの話から、ずいぶん関係ない話にボールは転がってしまったようだ。  

Pen (ペン)「特集 365日カレー天国。」〈2017年8/15号〉 [雑誌]

Pen (ペン)「特集 365日カレー天国。」〈2017年8/15号〉 [雑誌]