ヒロシコ

 されど低糖質な日日

ある日のタリーズでの出来事について

コーヒーについていろいろ書きたくなることがある。お酒をのまない僕は、コーヒーにはちょっとうるさい。ということはなくて、ほんとうはただのコーヒー好き。といっても、銘柄にとくべつこだわりがあるわけでもない。ふだん家でのむのはブレンドだし、外でもブレンドかアメリカンを注文することがほとんどだ。店によってはその日のおすすめの豆があれば、そっちにすることもある程度ですね。

ついでに、砂糖もミルクも入れないブラック派。そうするようになったのは、明らかにカミさんの影響だ。実は、カミさんとのデートの待ち合わせ場所が、いつも決まって飯田橋(というJRの)駅ビルにある(ラムラという商業ビルの)ドトールだった。ほぼ毎日、会社帰りにそこのオープンテラスで待ち合わせ、コーヒーをのみ、夕食替わりのサンドイッチを食べ、お互いのことやその日にあったことをあれこれ話し合った。

それから、よほどの大雨でもないかぎり、御茶ノ水・秋葉原方面か、市ヶ谷・四谷方面へと、その日の気分でふたりでよく歩いた。歩きながら話し、話しては歩いた。まるで村上春樹さんの小説『ノルウェイの森』の僕と直子みたいに。疲れたらどこかのコーヒーショップに立ち寄り、そこでもまたコーヒーをのみながらいろいろなことを話した。それまで僕はコーヒーに砂糖もミルクもまあふつうに入れていたのだが、ブラックでのむカミさんを真似て、あっさりブラック派に宗旨替えした。僕だけ砂糖もミルクも入れるなんて、正直ちょっとかっこ悪かったし。

そもそも、僕がコーヒー好きになったのは、父方の伯母さんの影響が大きい。伯母さんは生涯独身で子どももいなかったから、僕のことをよく可愛がってくれた。どこかへ出かけるとすぐ喫茶店に入りたがる人で、まだ子どもだった僕にもいっしょにコーヒーを頼んでくれた。高校2年生のとき、新聞配達のアルバイトではじめてもらった給料で、僕は洋服でもレコードでも(当時はまだレコードの時代だったのですよ)なく、コーヒーサイフォンを買った。当時、コーヒーメーカーというのが一般的にあったかどうか記憶にないが、いかにも本格的な、コーヒーサイフォンというものに強い憧れを持っていた。

薬局でアルコールランプ用のメタノールを買うのに、どうしても親の承諾がなければ売ってもらえなかったりというのも懐かしい思い出だ。豆は、自分でキリマンジャロとかブルーマウンテンとかグァテマラとかを、そのつど少量ずつ買っては自分で挽いて適当にブレンドした。風味の違いはいまもあのころもほとんどわからなかったが、そういう名前のコーヒーがあるんだということを知って、そしてそれを自分で挽いて淹れてのむという行為が、すごく大人びていると思っていた。

大学生のころは、昼は喫茶店、夜はスナックという店のカウンターでアルバイトをしていたおかげで、いくらのんでもコーヒーだけはタダだった。それはやはり貧乏学生の僕にとって非常にありがたかったなあ。どうせ原価はタダみたいなもんだもの、というのがマスターの奥さんの口ぐせだった。マスターの奥さんには、ネルドリップ式コーヒーのおいしい淹れ方を教えてもらった。コーヒーとタバコと映画と本とパチンコ、それが学生のステイタスだと勝手に勘違いしていた、いま振り返るとなんともバカヤローな時代でしたね。

カミさんとは結婚してからも、ふたりでよく散歩をしては、途中のコーヒショップでひと休みする。もう20年以上も前の話だけど、一度知らずにコーヒー一杯1000円という喫茶店に入って肝を冷やしたことがあった。借りたトイレなんて、うちのリビングより広くて豪華で心底驚いた。その代わりというか、カウンターの後ろの備えつけの棚にずらりと並んだカップのなかから、自分が気に入ったものをひとつ選び、そのカップにコーヒーを注いでくれるというサービスもあった。チョコレートのお茶うけもついてきた。

ぼったくりというわけではなく、あとから確認したら、店の入口にちゃんとそういう断り書きが掲示してあったのだ。いまだに、ふたりでそのときのことを笑い話にしているし、こうしてなにかのネタにもなっているくらいだから、1000円も決して高かったわけではないかもね。

僕はいまでも、大きめのマグカップで日に10杯くらいはガブガブと平気でコーヒーをのむ。コーヒーだって糖質がまったくのゼロというわけではないだろうから、糖質制限的にもさすがに少しのみすぎなんじゃないかという気はするけれど、家でのむのはふつうよりそうとう薄めに淹れるコーヒーだから、まあいいかなあと思って。

f:id:roshi02:20160103165845j:plain

ところでこないだ、タリーズでコーヒーを飲みながら本を読んでいたら、よれよれのおじーさんが店のなかに入ってきて、店員のおねーさんつかまえて「タバコすえるとこある?」と訊いたのだ。というか、もう火のついたタバコくわえていた。

おねーさんはそこは笑顔で、「店のいちばん奥に喫煙ルームがございますので、そちらでおタバコをおすいになりながらコーヒーもお召しあがりになれます」と、流暢な日本語でまるで接客の見本のように答えた。「じゃあ、コーヒー」と、おじーさんは無愛想にいった。おねーさんはあいかわらず笑顔を崩さず、「お客さま、そのまえに一度おタバコをどこかでお消しになって、あらためてお入りください」といったのだ。

おじーさんは不服だ。身ぶり手ぶりで、だって奥にタバコすえる部屋があるんだろ、といってるふうに僕には見えた。いってるというか、むしろ必死で訴えてる。「そこまでのあいだ、ほんのちょっとくらい構わないだろ」と。そのタリーズは道路に面して横に細長い店で、入り口のドアを入ってすぐのカウンターがいちばん右端だとすると、いちばん左端にもうひとつべつのドアで仕切られた喫煙ルームがあった。よって、カウンターでコーヒーを受け取って奥の喫煙ルームへいくまでのあいだ、長い禁煙コーナーをとおっていかなければならない。

だからおねーさんが、いったんタバコの火を消してくれというのはもっともなことなのだ。僕はかつて長いことタバコをすってた人間なので、いまさらちょっとくらいの煙は平気だが、そうではない人だってなかにはいるだろう。しばらく軽い押し問答のようなことをつづけたのち、おじーさんは、いったんどこかへ姿を消し、怒って(というか諦めて)帰っていったのかと思っていたら、しばらくしてほんとうにどこかでタバコの火を消して、あるいは満足するまですいおえて、あらためてコーヒーを飲みにやってきたのだった。

おじーさん、テイクアウトの紙コップのコーヒーを大事そうに持って、細長い禁煙コーナーの通路を悠々と歩き、店のいちばん奥の喫煙ルームの間仕切りの向こうへ、まるでタバコの煙が排気ダクトに吸い寄せられるように入っていった。おじーさんの後ろ姿を目で追いながら、僕にはあるひとつの疑問が浮かんだ。それは、「おじーさんはいったい、なにがいちばんしたいんだろう?」という素朴な疑問です。

1.タバコがすいたい
2.コーヒーがのみたい
3.タバコをすいながらコーヒーがのみたい
4.コーヒーをのみながらタバコがすいたい

1は、なにもタリーズじゃなくてもほかにすえる場所はある。現についさっきまですっていた。2の、コーヒーがのみたいだけならべつに禁煙ルームでもいい。そうなると、3か4に絞られるわけだけど、いっけん3も4もおなじことなのではないかと思うかもしれないが、3の主目的はコーヒーをのむことで、そのついでにタバコをすい、反対に4の主目的はタバコをすうことで、あくまでそのついでにコーヒーをのむのだ。結果はどっちも同じ行動だから、そんなのどうでもいいっちゃあいいんだけどね。

でも僕にはおじーさんは、3の「タバコをすいながらコーヒーがのみたい」だったような気がして、うん、そうだそうだ、とひとりほくそ笑んでいた。余談ですけど、いや僕の書くものなんていつも全部が余談みたいなものだけど、タバコすいながらコーヒーのみながらスマホで音楽聴きながら本読む、とかになると、さすがに動作の主目的はなんなのかわからなくなるが、それ器用にやってる人ってけっこういるよね。タバコをすわないまでも、イヤホンで音楽聴きながらスマホいじりながら(たぶんツイッターやってる)コーヒーのみながら友だちとしゃべってる人とか。

僕は、せいぜい本とコーヒーだから、かわいいもんだ。では、僕がタリーズにいる主目的って、コーヒーなのか本なのか、どっちなんだろうとはたと考えた。本はずっと読んでいて、そのあいまあいまにコーヒーを飲むから、自然と「コーヒー飲みながら本を読む」といってしまう。えーっと、まあたしかにどっちでもいいっちゃあいい話ですよねえ。正月早々からとりとめのない話を。   

すべては一杯のコーヒーから (新潮文庫)

すべては一杯のコーヒーから (新潮文庫)

 
ノルウェイの森 上 (講談社文庫)

ノルウェイの森 上 (講談社文庫)

 
ノルウェイの森 下 (講談社文庫)

ノルウェイの森 下 (講談社文庫)

 
コーヒー&シガレッツ [DVD]

コーヒー&シガレッツ [DVD]