されど低糖質な日日

~Ⅱ型糖尿病患者のありふれた日常~

結局、生きたようにしか生きられなかったということ

「大人しいね = おもしろくないね」というレッテル貼り

kondoblog.hatenablog.com

こいうエントリー読んでみたんだけど、みんなそれなりに生きるの苦労してるんだなあと思って。大人しい物静かな人も、とにかく明るく元気な人も、その中間の人もみんな、きっと例外なく。 

私は幼いころからよく「大人しいね」と言われてきた。 言った人がどういう意味で言ったのかは、わからない。そのときの状況や、その人の人柄にもよる。しかし「大人しいね」と言われると「おもしろくないね」「つまらないね」「暗いね」と言われているような気がした。自意識過剰の被害妄想もあるが、実際そう見えているんだろうし、そう言われているように感じることがあった。というか「大人しいね」と言われてどう言えばいい。

真っ先に思ったのは申し訳ないが、当然逆のパターンもあるだろうなあということだった。「明るいね」と言われるのは、「バカみたいだね」「何も考えてなさそう」「悩みがなくて羨ましい」ってふうに思われてるようでイヤだなあと、あとでひとりになったとき、それこそ人知れず悩んで溜め息ついてる人いそう。だいいち、「明るいね」と言われたらなおさらヘラヘラ笑ってその場をやり過ごすしかないのかもしれないし。

 

ほんとうの私とは何か

 かくいう僕も、どちらかと言えば「明るいね」と言われるタイプに分類されるのかもしれない。自分では正直よくわからない。このブログの筆者が書いているように、人には陽の部分もあればそうじゃない陰の部分もある。

そこで思い浮かぶのは、作家の平野啓一郎さんの『私とは何か――「個人」から「分人」へ』という本のことだ。平野さんがそのなかで書いてあるのは、ひとりの人間のなかには対人ごとに存在するさまざまな顔があるということ。平野さんはそれを「分人」という言葉で表現しています。

つまり、陽気な顔も陰気な顔も、積極的な顔も消極的な顔も、そしてそのどれもがまぎれもない自分自身なのであって、相手にあわせて仮面を被り直しているなんて考える必要はないってことですね。 

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

 
私とは何か 「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

私とは何か 「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

 

 

「分人」という考え方に触れて楽になった

 僕はたぶん、くだんのブログを書いた方よりはだいぶ長く、なにしろ50年以上生きてきているので、自分自身が他人からどう見られているかとか、そんなこと気にせず自分らしく生きていこうとか、じゃあ自分らしいってどういうことなのかとか、人並みには悩んできた。そんな僕も、この平野さんの「分人」という考え方を知ってずいぶん楽になったのを覚えている。

それまではやはり、いかにも仮面を被っている自分、多重人格者のような自分、そんなふうに自分のなかにいくつもの異なった顔があり、相手によってそれを使い分けていることにはネガティブなイメージしかなかったからね。いつかそのことがバレて、手痛いしっぺ返しを喰らうのではないかと内心ビクビクしてもいた。

でも、そのどれもが自分なんだよ、自分の体のなかに小さな自分(リトル自分)が何人も住んでいるのだと思えば、その日の気分によって服や時計を取り替えるように、目の前の相手によって登場させる自分を入れ替えたってなにもいけないことをしているわけじゃない。

 

結局、生きたようにしか生きられなかったということ

僕はブログのブックマークコメントに、  

前向きに楽しく生きたいけど、明るい人になりたいわけじゃなかった - とりあえず、一歩

結局のところ、自分がそう生きられるように生きるしかないのでしょうねー。無理をしても長い目で見るといつかは疲れて破綻してしまうでしょから。

2015/11/18 19:27

というふうに書き残したのだが、あとから考えると、そのとき無理して明るく振る舞って生きるのも、たとえそれがいずれ破綻したとしても、つまるところ結局、人は生きたようにしか生きられなかったということでしかないのかもしれないなあと思った。

「生きられるように生きるしかない」と現状開き直るより一歩進めて、無理をするのもそのときのその人、そうしてその無理が破綻して困ったり息詰まったりするのもまたそのときのその人、「生きたようにしか生きられなかった」ってことなのだと。なんだか結果論みたいな厭世感みたいなことになってしまいますが。

 

もう本当の自分を探す必要がない

そうやって考えると、平野さんのいう「分人」の存在と相まって、なんだかそうとう生きるのが楽になるような気がするのです。要するに、まああまり深く考え込まないようにしましょうよということだ。

長い時間とお金をかけてまで、わざわざ本当の自分を探す旅に出る必要もないし、少し前に流行った『アナと雪の女王』のエルサのように、「ありのままの姿を見せる」呪縛に逆にがんじがらめに縛られなくても済む。

だって、どんな生き方だろうと、いま生きている自分そのものが探してる自分なんだし、まさにありのままの自分なんだから。必ずしも積極的ではないかもしれないけど、とりあえずはいまを肯定的にいられる。青い鳥は自分自身なのだ。たとえ一刻「無理して明るく振る舞う」という仮面を被っていたとしてもね。

 

突然、現在と未来に希望を見いだせなくなった

 少し個人的な話をすると、僕は4年前に糖尿病を言い渡され、一度は失明の危機まで宣告された。それも糖質制限と出会ったこと、幾度かの施術(レーザー治療や眼球注射など)のおかげで、失明の危機からは当面免れたが、その不安は血糖値の安定とともに将来にわたって永久に保障されたものではない。なぜなら、糖尿病は一度発症すると生涯治らない病気だからだ。

そのときは、ああこれで僕の人生のほとんどの楽しみは奪われたんだなあと悲嘆にくれ、現在と未来に対してなんの希望も見いだせなくなっていた。著しく視力も落ちて生活にも支障が生じた。運転免許証も失効した。当然食べるものも制限された。いくつかの合併症に悩まされ、いまも悩まされつづけている。

けれど一方で、少し冷静になってくると、悪いことばかりでもないと思うことがある。いつも妙に疲れやすくて「疲れた疲れた」と愚痴をこぼしてカミさんにイヤーな顔されていたのが、僕が重度の糖尿病だとわかった途端、カミさんは前より少しやさしくなった。子どもたちも、言葉には出さないがなにかと僕を気遣ってくれるようになった気がする。

それにね、僕の方でもそのことに甘えてばかりいるのも悪いから、自分でできることをしようとがんばって糖尿病のことや糖質制限のことをいっぱい勉強した。もう何度も書いたことだけど、低糖質のパンを見よう見まねで焼くようになり、糖尿病でも食べられるチーズケーキやガトーショコラやシフォンケーキを焼くようになった。かつての自分からは想像もできない変わりようだ。

そしてなにより、自分ばかりでなく家族の健康にも気を配れるようになった。

 

病を得て拡がった人生もある

病を得て、狭まった人生もあるが、そのぶん別のこれまで勝手に閉じていた扉を積極的に開ける勇気が湧いてきた。それで拡がった人生もある。こうしてあたらしいブログもはじめたことだし。

無理に無理をしたり、あえて渦中に巻き込まれに行く必要もないが、でもそのときにそうしたいそうしようと思えば、いっとき無理したり表面を繕ったりするくらいはたいして構わないんじゃないかなあ。本当の無理だったらいずれ破綻するだろうし、破綻しなけばそれはもともと無理ではなかったってことなのだから。

で、破綻したからってそこが終着点とはかぎらないよ。まだ人生の続きが待っているのなら、その先をまた何食わぬ顔して歩けばいいだけのこと。そうして結局、生きたようにしか生きられなかったなあ、ってあとからしみじみわかることなのかもしれないよね。

なんて、僕もたいした苦労もなくたかだか50年ちょっと生きてきただけでエラソーなこと言える立場じゃないけど。これからも糖尿病と仲良くつきあいながら、家族や周りの人に迷惑かけた分、自分に迷惑かけた分を、残りの人生で少しでも回復しなくちゃならないから。